船溜と荷物置場をめぐる騒動

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通船が開始されてまもない六月初旬、小川村、小川新田、野中新田、回田新田、鈴木新田から通船の願書が提出された。小川村は六艘、他は各一艘ずつの造船願いで、加えて物資の積み卸し場である船溜(ふなだまり)の設置願いも、小川村、野中新田、回田新田、鈴木新田から出されている。小川村の一艘は六月中に極印が打たれて運行がはじまり、小川新田、野中新田、回田新田の船も閏一〇月には運行を開始した。小平でも小川村を先頭に、通船による地域開発をめざして動き出したのである。しかし、大きくふくらんだ通船への期待は、翌年になると、いくつかの騒動も引き起こすことになった。
 一八七一(明治四)年一月一一日、民部省土木司の出役が小川村の三左衛門橋際を通ったところ、その上水縁が切り落とされていることを発見した。村で取り調べたところ、船溜の計画を立てていた新蔵外三名が、追って願書を出すまでは築造を控えるようにと村役人に申し付けられていたにもかかわらず、勝手に切り落としていたことが判明した。村では詫び状を提出、今後、村で取り締まりを確実にすることを条件に、新蔵外三名を村預かりにすることを認めてもらった(「小川村より上水縁切落しにつき詫」他)。この事件は、通船への期待が一般農民にも広がり、村役人による村支配をも脅かすようになっていたことを示している。
 小川村に認められた船溜は、小川橋際と久右衛門橋際の二か所であった。小川橋際の船溜は、小川村・蔵敷村(現東大和市)が計画した船溜に、すでに許可を受けていた砂川村の船溜の位置を変更して合併することにし、再申請して許可されたもので、三か村の共同使用である。この共同使用の船溜では、組頭の小野弥右衛門が荷主より預かった諸荷物を置くために、橋の西側と東側に二棟の仮小屋を建てていた。物資の集積が「追々隆盛に随ひ手狭」になったので、小野は東側の仮小屋の建て増しを計画、四月一二日に韮山県に出願した。しかし、仮小屋自体の許可を受けていなかったことが問題とされ、同月二五日までに仮小屋を取り払うよう、県から命ぜられる。このことに驚いたのが、久右衛門橋際に小野と同様に許可なく仮小屋を置いていた、同じ小川村組頭の新井清五郎であった。新井は仮小屋が取り払われることになっては「当節肝要の桑・茶・前栽物(せんざいもの)又は耕作有用の糠・干鰯(ほしか)等其他御用の諸品運送方」に差し支えが生じ、「最寄一統の迷惑」にもなるので、あらためて「運送場納屋」として許可してほしいと願い出た。そして小野とともに、名主の小川弥次郎と「最寄村々役人総代」で小川村と船溜を共同使用していた蔵敷村の名主内野杢左衛門に相談した。両名主も二二日、仮小屋は雨露から荷物を守るために必要で、特にこれからの梅雨時には新製茶の輸送などに差し障りが生じることになるなどと主張し、「納屋」として認めてくれるよう県に願い出た。県では願いを受け入れ、取り払いの命令を取り消し、二四日までに船溜と荷物置場を取り調べ、新規申請も含め、あらためて願書を差し出すよう指示した。小川村では小川橋際の船溜に三か所(一か所は弥次郎が二月に「小商」をおこなうために願い出ていた「平屋」が許可されていたものか)、久右衛門橋際の船溜に新規一か所を含めた二か所、そして「新規願中」として船溜一か所(三左衛門橋際)と荷物置場一か所も願い出た(「納屋取建てにつき詫」他)。以上の仮小屋をめぐる騒動は、小川村の船溜に周辺地域の物資が集中しはじめ、小川村が北多摩の青梅街道西部地域(東村山市、東大和市、武蔵村山市、立川市北部)の物資流通の一つの中心地となりつつあったことをあらわしているといってよいであろう。通船による地域開発は実際に動きはじめたのである。なお、第二節でみたように、通船開通の準備工事がおこなわれていた一八七〇年三月、韮山県は地域の要望を受け、現在の東村山市、東大和市の地域を含む区域に「小川村組合」を発足させている。小川を中心とした地域作りは、通船による地域開発を意識した県の方針であったのかもしれない。
表1-14 小平の船数と船溜
村名船数(極印済)船数(申請済)船溜数船溜の場所(最寄橋)
小川村263小川橋、三左衛門橋、久右衛門橋
小川新田111喜平橋
野中新田131喜平橋
廻田新田111茜屋橋
鈴木新田 11小金井橋
(出典)船数は1871年12月の「通船願済船数及び極印済分の取調」、船溜の場所は「船溜・物揚場と河岸問屋所在地等一覧表」(『玉川上水通船史料集』)より作成。

 しかし、翌一八七二年五月、通船は水質の悪化を理由に禁止となった。小平の五か村を含む通船参加村々は、代替水路開削案、神田川筋ルート案などを示して通船再開を願い出たが認められなかった。そして、一八七五年には船溜も埋め立てられ、通船再開の道は閉ざされてしまう。通船実現で高まった流通の中心地としての地域開発という夢は、ついえてしまったのである。