日にちは不明であるが、小川村清水屋での培養商会定例会の開催を知らせる招集状が残されている(「培養商業仲間申合仮規則議案等関係書類綴」)。そこでは、前回の会議で荷物運送取締の条件、相場研究規則が協議されたこと、今回の会議では、そのことを踏まえて正荷売買取扱並びに保証規則を協議する予定であることが記されている。注目しておきたいのは、開催場所について触れ、小川村としたのは年行事たちが相談して前回と変えた結果で、次回は出席した会員との協議で決定したいと述べていることである。このことは、通船禁止により流通の中心地としての小川村の地位が弱まり、開催地を持ち回りにしなければ、全体の納得が得られない状況になっていたことを示していよう。
表1-15 培養商会参加の村々 | ||
組名 | 所属村名 | 会員数 |
東組 | 回田新田(※)、堀端野中新田(※)、貫井新田、小金井新田 | 7 |
中組 | 小川村(※)、小川新田(※) | 7 |
北組 | 柳久保村、久米川村、大岱村 | 8 |
西組 | 狭山村、高木村、蔵敷村、中藤村、横田村、三ツ木村 | 6 |
南組 | 砂川村、砂川前新田、郷地村 | 9 |
(出典)「培養協会記録」(『東村山市史10 資料編 近代2』より作成。 (注)(※) が小平の村 |
なお、志木等の通運会社と交わされた契約書で、「委員年行事」三名が署名しているが、その一人が回田新田の斉藤忠輔であった。斉藤は第二節で触れたように、ちょうどこの時期、地価修正反対運動の総代をつとめ、妥協案である県からの救助金の受け取りを拒否していた。培養商会への参加は、武蔵野新田であることを理由に補助を受ける、これまでの消極的な姿勢を捨て、肥料を安く購入するなどのみずからの努力で、生産性の向上をはかろうという積極的な姿勢へと転換したことをあらわしていよう。また後で述べるが、斉藤は同じ時期、国盛社支社を設立し、金融活動も強化していた。斉藤のこのような転換は、小平におけるその後の展開に、大きな影響を与えることになる。残念ながら、培養商会のその後の活動については不明である。