培養商会の結成

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通船では、「桑・茶・前栽物」などが船溜をつうじて移出され、その増加で地域経済が活性化されつつあったのであるが、それらの生産に必要な「糠・干鰯等」の肥料の移入という面でも通船は重要であった。小荷駄で運んでいたそれらの物資が、船運による輸送コストの低減で、安く手に入れられるようになったからである。しかし、通船の禁止で再び小荷駄に頼るようになった結果、「車馬夫業者の悪習慣」の増加に悩ませられるようになった。そこで、一八七五(明治八)年頃、大岱村(現東村山市)の市川亀次郎らの運送業者は青梅橋に集まって相談、「車馬夫業者」を扱う志木(現埼玉県志木市)や中野(現中野区)の各通運会社に改善するよう申し入れた。一八七五年という年は、通船の船溜が埋め立てられた年である。通船再開の道が閉ざされた現実を踏まえ、陸上輸送の改良に真剣に乗り出すようになったのであろう。しかし、「悪習慣」の改善はなされなかった。そこで、さらに多数の地元運送業者を結集して、その力を背景に交渉しようと考え、青梅街道西部地域の同業者全体を組織化することにした。その結果、一八七九年三月、会員二九名で「農商会社」の結成が決まり、仮規則が起草された。しかし、名称に「農」があるにもかかわらず、規則内に農業のことが書かれていないとの批判を受けたことから、名称を「培養商会」(培養商業仲間)と変更した。四月に議論された「甲号議按」によると、会員を五組に分け、各組から委員を一名ずつ選出し、委員は会頭の指揮を受けて庶務、会計などにあたることになっている。この時点の会員数は三七名である。会頭には市川亀次郎の弟の幸吉が就任した。そして八月、志木と箱崎(現中央区)の通運会社との間で契約書を締結した。この契約書では荷物運搬の日数や、駄賃の基準などが決められ、同時に「通運会社心得」「船方心得」「馬牛車夫心得」も合意された(「培養協(ママ)会記録」)。この契約書、心得によって、陸上交通の改良は進んだものと思われる。
 日にちは不明であるが、小川村清水屋での培養商会定例会の開催を知らせる招集状が残されている(「培養商業仲間申合仮規則議案等関係書類綴」)。そこでは、前回の会議で荷物運送取締の条件、相場研究規則が協議されたこと、今回の会議では、そのことを踏まえて正荷売買取扱並びに保証規則を協議する予定であることが記されている。注目しておきたいのは、開催場所について触れ、小川村としたのは年行事たちが相談して前回と変えた結果で、次回は出席した会員との協議で決定したいと述べていることである。このことは、通船禁止により流通の中心地としての小川村の地位が弱まり、開催地を持ち回りにしなければ、全体の納得が得られない状況になっていたことを示していよう。
表1-15 培養商会参加の村々
組名所属村名会員数
東組回田新田(※)、堀端野中新田(※)、貫井新田、小金井新田7
中組小川村(※)、小川新田(※)7
北組柳久保村、久米川村、大岱村8
西組狭山村、高木村、蔵敷村、中藤村、横田村、三ツ木村6
南組砂川村、砂川前新田、郷地村9
(出典)「培養協会記録」(『東村山市史10 資料編 近代2』より作成。
(注)(※) が小平の村

 なお、志木等の通運会社と交わされた契約書で、「委員年行事」三名が署名しているが、その一人が回田新田の斉藤忠輔であった。斉藤は第二節で触れたように、ちょうどこの時期、地価修正反対運動の総代をつとめ、妥協案である県からの救助金の受け取りを拒否していた。培養商会への参加は、武蔵野新田であることを理由に補助を受ける、これまでの消極的な姿勢を捨て、肥料を安く購入するなどのみずからの努力で、生産性の向上をはかろうという積極的な姿勢へと転換したことをあらわしていよう。また後で述べるが、斉藤は同じ時期、国盛社支社を設立し、金融活動も強化していた。斉藤のこのような転換は、小平におけるその後の展開に、大きな影響を与えることになる。残念ながら、培養商会のその後の活動については不明である。