茶樹栽培の開始から茶業発展までの経緯については、一八八三(明治一六)年開催の製茶共進会に参加した大沼田新田の當麻弥左衛門が提出した「共進会出品申告書に添付の茶業来歴」に、おおよそ次のように記されている。
一八五五(安政二)年、當麻は西多摩郡平井村(現日の出町)に出かけた。その際、茶樹が茂り製茶が盛んであるのを見て羨ましく思い、同地の森田七郎右衛門に「播栽摘製の方法」を教えてもらった。家に帰って茶種を播くと、幸いにも地質に適応し繁殖するようになった。五年後、はじめて製茶を試みたが、とても「清良甘美の品」とは言えなかった。そこで、茶の産地である伊勢の菰野(こもの)(三重県)の者を招き、あるいは鹿野山麓(かのさんろく)(千葉県)の人を雇い、さらに宇治や狭山の製造法も折衷して幾多の試験を試み、寝食を忘れて努力した。その結果、ついに「大に改良進歩」するに至った。そこで、村内に栽培を勧め、近村にも種を与えて勧誘し、共に隆盛をはかろうとした。ちょうどそのころ、茶の輸出も盛んになったことから、茶園も拡大し、製茶も盛んになった。その結果、大沼田新田は五〇戸未満の小さい村であるが、三〇余町におよぶ茶園をもつようになった。
図1-13 茶業来歴1883年
當麻は「来歴」の冒頭部分で、武蔵野の新田は、「土質高燥黒墟」であることから適する作物が少なく、農耕に苦しんできたため、土地に適する作物を求めようとの思いが強かったと述べている。茶の導入も、土地に適する作物を求めた努力の一つであったのであるが、それが産業として成り立っていくためには、さまざまな試みの努力が必要であった。彼は茶業の成功について、「来歴」の最後で「茶の土に応ずる所なると吾輩農夫の勉励」とによったものである、と振り返っている。このことを一言で言い表したのが「改良進歩」という言葉であろう。土地を改造する「開発」ではなく、土地にあう作物を求めて「改良」を加え、産業として発展させて地域の「進歩」をはかるのである。「改良進歩」という言葉自体は、後で触れるが、一八八一年に結成された大日本農会の会則で使用されて一般化するようになったものと思われるが、その努力は通船による「開発」への期待が高まっていた時期にあっても、一つの流れとして脈々と続いていた。この「改良進歩」の流れが、明治期には徐々に大きな流れとなっていくのである。