先義会社の再請願と製茶業の拡大

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一八七四(明治七)年五月、浅井良甫外四名より再度、「先義会社」設立の請願が提出された(近現代編史料集⑤ No.一七)。しかし、前年に提出された「先義会社」とは内容は大きく異なっている。この会社は、「製茶及茶実生葉に至迄濫製不正」がないようにするために有志を募って設立するという点では前年の願書と変わらないが、「取締役」「世話役」などは設けず、入社も各自勝手で、検査等も社中の者に限るというものであった。「製造人姓名帳」の作成も、鑑札についても全く触れていない。国の権力を背景とした茶業者全体に強制力をおよぼす同業組合ではなく、粗悪品製造の撲滅を目指して自主的に検査をおこなう一民間会社として構想されたのである。この会社は新たな仕事として、茶園の拡大をはかる茶業者への資金の貸し付けを付け加えた。上からの取り締まりに消極的であった政府の対応を受けて、方針転換したのであろう。
 しかしながら、この「先義会社」は、翌一八七五年に設立された茶の輸出拡大を目指す「狭山会社」などとは異なり、粗製濫造撲滅による茶業全体の発展を目指し、全国的な茶業者の組織化を志向したものであった。そのために、「本社」の他に、「港場及各地」へ「分社」を置くことを決めていた。この願いは聞き届けられて「先義会社」は設立されたようである。當麻家には、先義会社に宛てた一八七四年六月二五日付の伊勢国四日市(現三重県四日市市)の福生祐作から出された分社設置願、八月付の小平の當麻弥左衛門が出した分社設置願、九月二九日付の横浜弁天町(現神奈川県横浜市)の雨宮六右衛門の分社設置願、一〇月二五日付の足柄県加茂郡(現静岡県)の荒井房五郎、宮内喜三郎の分社設置願の四通が残されている(近現代編史料集⑤ No.一八、他)。粗製濫造をなくし、日本茶の声価を高めようとの動きは、各地の茶業者のなかに広がり、先義会社も分社を拡大して活動を活発化させていたのである。神奈川県では「八王子組」が「武蔵地方分社第一」とされ、その許可は一八七五年六月二五日のことであった(「先義会社創立録」)。當麻の設立した分社の実際の許可は、この「八王子組」設立ののちのことであったと思われる。
 残念ながら、先義会社のその後の活動がわかる史料は残されていない。しかし、この頃から小平でも茶業の新規開業が増えたようである。斉藤家文書のなかに、一八七九年九月に横浜で開催された製茶共進会に出品した回田新田の浅見四郎左衛門と氏名不明の二人の出品者履歴が残されている。そこには、浅見の開業は一八七五年、他の一人の開業は一八七七年と記されている(「出品者履歴」)。先義会社分社の活動が影響を与えたのかもしれない。
 
表1-17 小平の製茶業者の茶業歴
西暦和暦當麻弥左衛門當麻朝正浅見四郎左衛門氏名不明
1855安政2平井村森田より茶樹播栽摘製方法を学ぶ。1町5反歩   
1860万延1初めて試製。その後、伊勢菰野の者を招き、鹿野山麓の者を雇い、宇治・狭山の製法を折衷   
1863文久31町8反歩拡張   
1865慶応1 5反歩播種  
1867慶応3海外輸出。製茶増加、園圃拡大。2町歩拡張   
1870明治3 1町歩拡張  
1875明治8  開業 
1877明治10   開業
1878明治11   「職工の拙なるより哀情」
1879明治12   宇治製を学ぶ。「少しく声価」
(出典)當麻家文書H6-12、斉藤家文書H6-20の各共進会申告書より作成。