しかしながら、この「先義会社」は、翌一八七五年に設立された茶の輸出拡大を目指す「狭山会社」などとは異なり、粗製濫造撲滅による茶業全体の発展を目指し、全国的な茶業者の組織化を志向したものであった。そのために、「本社」の他に、「港場及各地」へ「分社」を置くことを決めていた。この願いは聞き届けられて「先義会社」は設立されたようである。當麻家には、先義会社に宛てた一八七四年六月二五日付の伊勢国四日市(現三重県四日市市)の福生祐作から出された分社設置願、八月付の小平の當麻弥左衛門が出した分社設置願、九月二九日付の横浜弁天町(現神奈川県横浜市)の雨宮六右衛門の分社設置願、一〇月二五日付の足柄県加茂郡(現静岡県)の荒井房五郎、宮内喜三郎の分社設置願の四通が残されている(近現代編史料集⑤ No.一八、他)。粗製濫造をなくし、日本茶の声価を高めようとの動きは、各地の茶業者のなかに広がり、先義会社も分社を拡大して活動を活発化させていたのである。神奈川県では「八王子組」が「武蔵地方分社第一」とされ、その許可は一八七五年六月二五日のことであった(「先義会社創立録」)。當麻の設立した分社の実際の許可は、この「八王子組」設立ののちのことであったと思われる。
残念ながら、先義会社のその後の活動がわかる史料は残されていない。しかし、この頃から小平でも茶業の新規開業が増えたようである。斉藤家文書のなかに、一八七九年九月に横浜で開催された製茶共進会に出品した回田新田の浅見四郎左衛門と氏名不明の二人の出品者履歴が残されている。そこには、浅見の開業は一八七五年、他の一人の開業は一八七七年と記されている(「出品者履歴」)。先義会社分社の活動が影響を与えたのかもしれない。
表1-17 小平の製茶業者の茶業歴 | |||||
西暦 | 和暦 | 當麻弥左衛門 | 當麻朝正 | 浅見四郎左衛門 | 氏名不明 |
1855 | 安政2 | 平井村森田より茶樹播栽摘製方法を学ぶ。1町5反歩 | |||
1860 | 万延1 | 初めて試製。その後、伊勢菰野の者を招き、鹿野山麓の者を雇い、宇治・狭山の製法を折衷 | |||
1863 | 文久3 | 1町8反歩拡張 | |||
1865 | 慶応1 | 5反歩播種 | |||
1867 | 慶応3 | 海外輸出。製茶増加、園圃拡大。2町歩拡張 | |||
1870 | 明治3 | 1町歩拡張 | |||
1875 | 明治8 | 開業 | |||
1877 | 明治10 | 開業 | |||
1878 | 明治11 | 「職工の拙なるより哀情」 | |||
1879 | 明治12 | 宇治製を学ぶ。「少しく声価」 | |||
(出典)當麻家文書H6-12、斉藤家文書H6-20の各共進会申告書より作成。 |