民権運動の北多摩への広がり

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一八七四(明治七)年一月、民撰議院設立建白書が左院に提出され、国会開設を求める自由民権運動がはじまった。政府も翌一八七五年四月、漸次立憲政体樹立の詔を出して立憲制への歩みを開始、元老院、大審院を設置するとともに、府知事・県令による地方官会議を開催した。建白書提出から愛国社結成へと至る民権運動は、士族を中心とする運動であった。しかし、通船による地域開発を「国益」を掲げて実現しようとした北多摩の豪農達にも刺激を与えている。小川村と共同で船溜を設置した蔵敷村(現東大和市)の内野杢左衛門は、一八七五年に開かれた地方官会議、元老院の議事を傍聴し、議事制、代議制の理解を深め、国政への関心を高めるようになった。内野のような行動を後押ししたのが、後に自由党副総理となる神奈川県令中島信行が推し進めていた、県レベルの議事制度導入であった。内野が地方官会議を傍聴したのは六月であるが、その前月の五月、神奈川県では大区の区長による区長会議を「県会」と改称し、「県会議事章程」を定めて議事制度の充実をはかっている。
 一八七八年一月、芋窪村(現東大和市)愛染院を仮本部として「衆楽会」が結成された。衆楽会は「自治の道」を知ることを目的とし、毎月一、二回集まって「文を講し」「書を評し」「詩歌を詠す」る結社として組織された(「衆楽会開講式」)。神奈川県ではこの翌月の二月、「県会議事規則」を定めて、これまでの区長会議である「県会」に代えて、大区の議員の互選により選ばれた議員による「県会」を開いている。また、七月には政府より「府県会規則」が公布され、公選議員による県会が開かれることになった。このような地方議会設置への動きを受け、「自治」を学ぶ結社として衆楽会が設立されることになったのであろう。衆楽会の幹事は二人であるが、そのうちの一人は内野杢左衛門であった。小平のこの時期の動きは不明であるが、内野らをとおして何らかの影響は受けていたに違いない。
 一八七九年二月、神奈川県会議員選挙がおこなわれ、公選議員による県会が開設された。北多摩郡の議員定数は三名で、内野杢左衛門、吉野泰三(たいぞう)(野崎村、現三鷹市)、指田忠左衛門(宮沢村、現昭島市)が選出された。このころから、首都東京を拠点とする知識人グループである都市民権派の影響が北多摩郡に浸透し、民権運動が活発化しはじめる。一八八〇年の春頃には、甲州街道の布田五宿(現調布市)で東京の嚶鳴(おうめい)社員を招いた定期的な演説会が開かれるようになり、府中駅(現府中市)でも演説会がおこなわれた。これらの演説会は同年四月に制定された集会条例により一時下火となるが、一一月には府中演説会が開かれ、定期的演説会の開催を決定、再び運動は活発になった。一二月五日、府中称名寺で「勧業教育演説会」と称した演説会が開催されたが、同日には、同じ府中駅の高安寺において「武蔵六郡懇親会」が約一五〇名を集めて大々的に開かれている。この懇親会は三多摩民権運動の一大画期となった重要な懇親会で、これ以後、南北多摩郡では本格的に民権結社の結成が進んでいく。懇親会仮幹事となった五一名の内二二名は北多摩郡の人物で、そのなかには三人の県会議員も含まれている。しかし、小平など青梅街道沿いの人物は県会議員の内野のみで、府中駅などの甲州街道沿いの人物が中心であった。県会開設後の北多摩郡における民権運動は、東京からの影響を受け、甲州街道沿いの地域に広がったのである。

図1-14 吉野泰三肖像写真
三鷹市吉野泰平家所蔵