自治改進党結成が提案されたのは、一八八一年一月五日に府中駅で開催された北多摩郡懇親会であった。この提案は参加者一同の賛成で承認され、その場で盟約書が起草された。発会式は一月一五日に府中高安寺において開かれ、「総則」「社則」「議則」が決定された。「総則」には「自由党」結成の会合で検討された「自由改進党盟約」の影響がみられる。しかし、「自由改進党盟約」では、その主義を「人民の自由権利を拡張する」こととし、この主義によって「国政上の改良を謀り、国家の康福を増進」することを目的としてあげているのに対し、「総則」では、国政や国家については言及せず、「自治の精神を養成し、漸を以自主の権理を拡充」することを主義としてあげている(「自治改進党総則」)。内野、吉野がかかわりをもった、国会開設運動から政党結成へと向かっていた中央の運動とは一線を画し、あくまでも「自治の精神を養成」する組織として結成されたのである。衆楽会があげていた「自治の道」を知ることを発展させたのが「自治の精神を養成」することであり、自治改進党は衆楽会の延長線上に位置づけることができる。
このような「自治」を強調する組織としたのは、国政への参加を求める政治意識が北多摩郡全体には浸透しておらず、北多摩郡全体を組織対象とする結社としては、まずは「自治」を経験するなかで政治意識を高めていくことが必要だとの判断があったと考えられる。先に武蔵六郡懇親会の仮幹事は甲州街道沿いの人物が中心で、青梅街道沿いは内野だけであると指摘したが、自治改進党の党員一四四名の分布をみても、甲州街道沿いに党員が多く、青梅街道沿いの地域では各村に一から二名、あるいは大区小区制の小区の範囲に一から二名という分布となっている。このことは、前者では政治意識を持った有志者が自ら進んで党員となったが、後者では地域の代表者が党員として組織化された、といった違いがあったことを想定させる。実は自治改進党は、社長となった砂川源五右衛門が郡長、幹事五人の内三人が郡書記で、郡と一体となった組織であった。
小平で自治改進党員となったのは、小川村の小川弥次郎、回田新田の斉藤安在、野中新田与右衛門組の高橋恭寿、糟谷勝三郎の四人である。大区小区制の時代には、小川新田と回田新田が同じ一小区で、野中新田与右衛門組は別の九小区であった。一八七八年に郡区町村編制法が施行されて小区はなくなっていたが、自治改進党の支部割りは小区をもとにつくられており、小区のつながりは生きていたと考えられる。小平の四人は、それぞれの小区の代表として党員となったのであろう。
図1-15 高橋恭寿肖像画