自治改進党の結成

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府中駅で演説会が再開された一八八〇(明治一三)年一一月は、国会期成同盟の第二回大会が開催されており、全国的な運動が大きく盛り上がりをみせていたときでもあった。第二回大会では政党結成が提案され否決されたが、一二月になると、政党結成推進勢力が集まって会合をもち、同盟とは別に「自由党」結成の検討をはじめた。この会合に武蔵六郡懇親会の仮幹事として活発に活動をはじめていた県会議員の内野と吉野も参加している。ここには府中駅の「勧業教育演説会」に演説者として招かれていた嚶鳴社の野村元之助も参加しており、二人の会合への参加は嚶鳴社とのつながりによるものであったといってよいであろう。この会合は二人にとって大きな刺激となり、北多摩郡における民権結社・自治改進党結成の推進力となった。吉野はこのことについて、「自由党の会議」に参加して「我輩惰夫も少しく志を立る」ようになり、「帰郡後奔走、同志を募りて五十余名を得て自治改進党」を結成したと述べている(「吉野泰三書簡(深沢権八、千葉卓三郎宛)」)。地域での運動の広がりと盛り上がり、中央での最前線の議論への参加、この二つの相乗効果で、北多摩郡における民権結社の結成は具体化していったのである。
 自治改進党結成が提案されたのは、一八八一年一月五日に府中駅で開催された北多摩郡懇親会であった。この提案は参加者一同の賛成で承認され、その場で盟約書が起草された。発会式は一月一五日に府中高安寺において開かれ、「総則」「社則」「議則」が決定された。「総則」には「自由党」結成の会合で検討された「自由改進党盟約」の影響がみられる。しかし、「自由改進党盟約」では、その主義を「人民の自由権利を拡張する」こととし、この主義によって「国政上の改良を謀り、国家の康福を増進」することを目的としてあげているのに対し、「総則」では、国政や国家については言及せず、「自治の精神を養成し、漸を以自主の権理を拡充」することを主義としてあげている(「自治改進党総則」)。内野、吉野がかかわりをもった、国会開設運動から政党結成へと向かっていた中央の運動とは一線を画し、あくまでも「自治の精神を養成」する組織として結成されたのである。衆楽会があげていた「自治の道」を知ることを発展させたのが「自治の精神を養成」することであり、自治改進党は衆楽会の延長線上に位置づけることができる。
 このような「自治」を強調する組織としたのは、国政への参加を求める政治意識が北多摩郡全体には浸透しておらず、北多摩郡全体を組織対象とする結社としては、まずは「自治」を経験するなかで政治意識を高めていくことが必要だとの判断があったと考えられる。先に武蔵六郡懇親会の仮幹事は甲州街道沿いの人物が中心で、青梅街道沿いは内野だけであると指摘したが、自治改進党の党員一四四名の分布をみても、甲州街道沿いに党員が多く、青梅街道沿いの地域では各村に一から二名、あるいは大区小区制の小区の範囲に一から二名という分布となっている。このことは、前者では政治意識を持った有志者が自ら進んで党員となったが、後者では地域の代表者が党員として組織化された、といった違いがあったことを想定させる。実は自治改進党は、社長となった砂川源五右衛門が郡長、幹事五人の内三人が郡書記で、郡と一体となった組織であった。
 小平で自治改進党員となったのは、小川村の小川弥次郎、回田新田の斉藤安在、野中新田与右衛門組の高橋恭寿、糟谷勝三郎の四人である。大区小区制の時代には、小川新田と回田新田が同じ一小区で、野中新田与右衛門組は別の九小区であった。一八七八年に郡区町村編制法が施行されて小区はなくなっていたが、自治改進党の支部割りは小区をもとにつくられており、小区のつながりは生きていたと考えられる。小平の四人は、それぞれの小区の代表として党員となったのであろう。

図1-15 高橋恭寿肖像画