中和会と小平

84 ~ 86 / 861ページ
自治改進党結成から一か月たった一八八一(明治一四)年二月一五日、小川村の小川寺で懇親会が開かれた。当日来会した者は六〇名、嚶鳴社の草間時福、東京横浜毎日新聞社の竹内正志が招かれ演説をおこなった。そして、その場で「同盟仮合議書」が合意され、「中和会」を結成することが決まった。中和会結成の中心となったのは、『東京横浜毎日新聞』(二月一八日)、「杢翁記録」によれば、内野杢左衛門、宮鍋庄兵衛(高木村、現東大和市)、川鍋八郎兵衛(芋窪村、現東大和市)、小川弥次郎(小川村)、斉藤忠輔(回田新田)、小嶋龍叔(野口村、現東村山市)、渡辺武四郎(中藤村、現武蔵村山市)、小鍋正義らである。この八名のうち内野、宮鍋、小川、斉藤、小嶋の五名が自治改進党員であった。
 中和会の結成については、その経緯を示す史料が残されており、すでに『武蔵村山市史』で詳しく分析されている。それによると、「同盟仮合議書」作成に至るまでに三つの草案があり、内容の検討がおこなわれていたことがわかる。その中で一番古いと考えられている草案には、その主義は「人民の自由を拡充し、権利を伸張せんとする」ことであると書かれている。国政、国家については触れていないが、「人民の自由権利を拡張する」ことを主義とした「自由党」結成の会合で検討された「自由改進党盟約」に近い。これらの草案が残されていたのが内野家であることから、草案の作成では内野杢左衛門がリーダーシップをとっていたと思われる。内野は「中和会」を、「自治」を重視した自治改進党よりも一歩進んだ、「自由党」への橋渡しとなる組織として構想していたのではないか。しかし、会の主義は「正理公道に基き、民人の幸福を増益せんとする」という案も検討されたのちに、「天賦の自由を伸張し、人生の福祉を増益する」ことに変更された。「権利」の伸張を削ることで、政治性を弱めたかたちである。他の中心メンバーとの議論のなかで、政治性を出したかたちでの結社の結成は難しいと判断されたと考えられる。この難しさは、第二回中和会で早くも露呈されることとなった。
 「同盟仮合議書」では毎月一回、演説会か討論会を開くとされ、次回の場所はその前の会において、その都度決めることとされた。先に培養商会に触れた際に指摘したように、中和会の組織範囲となった小平、東村山、東大和、武蔵村山の青梅街道西部地域は、通船禁止以降中心地を定められない状態であった。それでも第一回に引き続き、第二回の場所も小川村とされており、まだこの時期には、小川村が一つの有力な中心地と考えられていたと思われる。しかし、三月一九日開催の第二回中和会に参加するために内野が小川村に赴くと、「会員単に九右衛門のみ」であったという。そこで、「有志者五六名を募り」、あらためて同じ月の二七日に第三回演説会を中藤村真福寺で開くことにした(「発起同盟議決書」)。その後、中和会の活動は内野の地盤である蔵敷村(現東大和市)、中藤村(現武蔵村山市)の地域に移り、小川村ではおこなわれなくなっていく。小川村は政治的活動において、地域の中心地となる可能性を失ったのである。
 内野、吉野が参加した「自由党」結成の会合は、結局、実を結ばなかったが、一八八一年一〇月に開催された国会期成同盟第三回大会で再び結成が提起され、同月二九日、自由党が成立することになった。北多摩郡では結党当初から中村克昌(上石原村、現調布市)が党員となり、吉野泰三、中村重右衛門(上石原村)らも早くから党員として活動していたようであるが、本格的に党勢拡大がおこなわれたのは一八八二年に入ってからであった。一月一〇日の原町田(現町田市)の懇親会にやってきた自由党幹事の迫田盛文、大石正己が一二日に府中駅に赴き、砂川源五右衛門郡長、比留間雄亮郡書記らを勧誘し、入党を承諾させる。砂川が自治改進党の社長であったことは先に触れたが、比留間も自治改進党の幹事であった。自由党は、郡と自治改進党が一体となった組織を利用して、党勢の浸透をはかろうとしたのである。しかし、自治改進党とは異なり、自由党員は北多摩郡全体に広がることはなかった。青梅街道沿いでは、小川村に代わって中和会の中心となった蔵敷村、奈良橋村、芋窪村に党員が生まれたが、小平を含む他地域に自由党に入る者はいなかった。「自治」を強調した自治改進党には入党しても、政治性を前面に出した自由党に対しては拒否反応を示したのである。