小平は、一八八四(明治一七)年に連合戸長役場ができて、現在の市域が一つのまとまりとなるまでは、大まかにいえば、小川村、小川新田、回田新田からなる「小川地域」(一小区の区域)と、鈴木新田、大沼田新田、野中新田与右衛門組、野中新田善左衛門組からなる「野中地域」(九小区の区域)に分かれていた。この「地域」に注目して民権運動への対応を整理すると、自治改進党に代表者を出したが自由党員になる者はいなかった、という点で両地域は共通しているが、小川地域は自由党員を出した蔵敷村などの地域とともに中和会を結成して一度は民権運動に乗り出そうとしたのに対し、野中地域は民権運動にかかわる動きはみられなかった、という点で違いがあることがわかる。この違いの背景にあるものは何なのであろうか。
すでに第一節で詳しくみてきたが、小川地域と野中地域の区切りは、一八六九年四月の韮山県と品川県との県域の再編によって生まれたものである。この再編で小川地域が韮山県、野中地域が品川県となった。韮山県では翌一八七〇年三月に小川村組合が設置されたが、そこには小川地域の他に東大和市、東村山市にある村々も含まれた。中和会が活動の場とした範囲は、この小川村組合でのつながりが元となっていたと考えてよいだろう。一方、品川県に属することになった野中地域では、県域再編がおこなわれた一八六九年の一一月に、地域を揺るがした大事件である御門訴事件が起こっていた。このことも第一節で触れたので、詳しくはそちらを参照してほしい。この闘いでは多くの犠牲者が生まれ、新政府の厳しい姿勢を身にしみて知ることとなった。さらに地価修正反対運動でも、神奈川県の強い姿勢の前に挫折をしいられている。野中地域四か村のみでなく、田無町を含めた新田地域全域で、民権運動期には目立った活動がみられない。それは、御門訴事件と地価修正反対運動の体験で、政治的な活動への警戒心・挫折感をもつようになったからであると考えられる。