大日本農会の設立と斉藤忠輔

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それでは、小川地域が一度は中和会の中心地となりながら、その後、政治的な活動から離れてしまうのは、なぜなのであろうか。それは、この地域が野中地域とともに、「改良進歩」に力を入れるようになっていたからだと考えられる。
 先に、大沼田新田の當麻弥左衛門が茶樹を導入して「改良進歩」の努力を重ね、茶業を村内へ、近村へと広げていったことについて触れた。一八七五(明治八)年には、回田新田の浅見四郎左衛門も茶業を開始し、一八七九年には製茶共進会に出品するまでになっていた。大沼田新田は野中地域であり、回田新田は小川地域である。野中地域の「改良進歩」の努力が、小川地域にも広がっていたのである。この浅見の史料は、自治改進党員となり、中和会結成の中心ともなった回田新田の斉藤忠輔の子孫の家に残されていたのであるが、その斉藤忠輔が製茶共進会と同じ一八七九年に結成された培養商会の委員年行事となり、流通面での「改良」に乗り出していたことについても先に触れた。「改良進歩」の動きは、さまざまな面に広がりはじめていた。

図1-16 斉藤忠輔肖像画

 一八八一年四月、農商務省が設置され、大日本農会が結成された。大日本農会は会則で、会の目的を「汎く農事の経験知識を交換して専ら該業の改良進歩を図る」こととし、「改良進歩」の旗を高く掲げた(「大日本農会会則」)。この「改良進歩」の宣言は、それまでの欧米農法・農学の移植による大農経営の拡大という政府の方針を一八〇度転換するもので、地域で農業の「改良」を指導してきた「老農」を結集して、農業の「改良」と地域の「進歩」を進めていこうというものであった。この結成には、農民が自由民権運動に走るのを防ぐ意図もあったといわれているが、中和会から小川地域が離れていく動きは、まさにこの意図が求めていたものであったといえる。小川地域が中和会から離れていくのは、大日本農会結成の前月のことであった。
 とはいっても、実際に大日本農会員が北多摩郡に生まれるのは一八八二年の八月で、会員となったのは大岱村(現東村山市)の市川幸吉である。市川幸吉が培養商会の中心となって活躍していたことについてはすでに触れたが、市川は當麻弥左衛門と同様、茶業の「改良進歩」にも取り組み、東村山に茶業を広げていく原動力となった人物でもあった。市川は一八八三年八月より毎月三回および雨天大祭日に、老農を集めて「勧業茶話会」を開くようになり、一二月には『武蔵野叢誌』第五号に「告神奈川県民」と題する文を寄せ、大日本農会への加入を呼びかけている。さらに一八八四年四月には議事に参加できる特別会員となった。市川は北多摩郡の大日本農会員として「改良進歩」のリーダーとなり活躍したのである。小平で最初に大日本農会に入会したのは斉藤忠輔で、市川が勧業茶話会をはじめた一八八三年八月のことであった。小川地域が自由民権の動きから距離を置いていくのは、「改良進歩」に力を入れるようになった斉藤忠輔の影響が大きかったのではないだろうか。