国盛社は一八七九年三月に創業願が出されている(近現代編史料集⑤ No.二六)。そこに署名した発起人は、国分寺村九名、小金井村、是政村(現府中市)、恋ヶ窪村(現国分寺市)、回田新田から各一名ずつの一三名である。社長は国分寺村の本多良助で、国盛社は国分寺村が中心であった。回田新田以外は新田村でない「ハケ」(国分寺崖線)下にある古くからの村々で、比較的豊かな地域であった。創業願が出された三月は、斉藤が参加した培養商会(農商会社)設立が決まったのと同じ月である。培養商会が組織化した運送業者は青梅街道西部地域であることから考えると、斉藤が国盛社に参加した意図は、古村地域から青梅街道西部地域へ資金を回すことにあったと考えることもできるだろう。
国盛社は「普く小民に金円の融通を与へ」る会社として設立されたが、その設立の意義は「殖産の基を起さん」とすることにあるとし、それは「国益の基を起」こすことでもあると述べている(「緒言」)。「改良進歩」の努力を金融面から支えるもので、それが「国益」の名のもとで実行されたのである。このような会社は「銀行類似会社」といわれているが、「改良進歩」の動きが広がった明治一〇年代にたくさん出現している。一八八〇年一二月、「各社連合」が結成された。これは複数の銀行類似会社から金を借りて身代限りとなる「悪しき借り人」を互いに連絡し合い、被害を被らないようにするために結成された連合である(「各社連合仮規則」)。この連合には表1-18に示した一四社が参加した。北多摩郡の中心である府中駅に多いのは当然であろうが、小平でも四社が設立されていることがわかる。青梅街道沿いの地域で小平以外の会社は高木村の高明社と中藤新田の民融社しかない。ここに登場する会社が北多摩郡に生まれた銀行類似会社のすべてであったとはいえないが、少なくとも小平では小川地域、野中地域ともに金融活動が活発で、それが国分寺村や府中駅などの「ハケ」下の地域との関係を保ちながらおこなわれていたということはできるだろう。
表1-18 「各社連合」に参加した銀行類似会社 | ||
社名 | 所在地 | 署名者(社長) |
国要社 | 鈴木新田(※) | 森川萬平代理秋山権兵衛 |
新盛社 | 小川新田(※) | 宮寺幸次郎 |
興業社 | 小川村(※) | 小野弥右衛門代理小川弥七 |
国盛社出張所 | 回田新田(※) | 斉藤忠輔 |
高明社 | 高木村 | 尾崎倉吉 |
民融社 | 中藤新田 | 高橋靖 |
共益社甲 | 府中駅 | 矢島藤助 |
共益社乙 | 府中駅 | 小川半兵衛 |
共益社丙 | 府中駅 | 田中庄八代理岩崎浪穂 |
賑業社 | 府中駅 | 町田萬六代理矢島藤介 |
桑田社 | 府中駅 | 桑田稲賀代理岩崎浪穂 |
高橋社 | 府中駅 | 高橋角右衛門代理矢島藤助 |
協立社 | 飛田給村 | 薪原子兵衛代理鈴木次郎左衛門 |
国盛社 | 国分寺村 | 本多良助 |
(注)(※)が小平の村 |
その後、斉藤忠輔は父の安在と相談し、「共立銀行」を一八八三年七月に発足させる。これは発起人の出資金を資金とする国盛社とは異なり、株式組織による銀行である。共立銀行は正式には認可されなかったが、一八八四年二月に「玉川銀行」として設立認可された。玉川銀行の発起人は七名で、小平では回田新田の斉藤安在、斉藤忠兵衛、小川新田の小野房次郎、ほかに内藤新田(現国分寺市)、大岱村(現東村山市)、野口村(現東村山市)、狭山村(現東大和市)から一名ずつである(近現代編史料集⑤ No.二八)。すべて「ハケ」上の地域であり、小平、東村山の地域が中心である。「ハケ」下の古村から自立して経営がおこなわれるようになったといってよいであろう。ここで注意しておきたいのが、忠輔が大日本農会に入会したのが共立銀行発足翌月の八月であること、玉川銀行では父安在が発起人となり、忠輔は発起人に名を連ねていないことである。おそらく、この時、忠輔が農事の「改良進歩」に力を入れるため銀行経営から退き、父安在が忠輔に代わって銀行経営を担う、との役割分担をするようになったのではないか。では、忠輔の「改良進歩」の努力は、具体的には何に向かったのか。
図1-17 「玉川銀行創立願並規則書」 1882年9月
忠輔は一八八四年度に、発足したばかりの玉川銀行から二〇〇円の資金の貸し付けを受けている。そして、あとでみるように、一八八五年五月、北多摩郡茶業組合が結成される際、その中心的役割を果たしている。この二つをつなげて考えると、玉川銀行の資金を利用して茶業拡大をおこなった可能性が高い。製茶共進会に参加するなど、茶業に力を入れていた回田新田の浅見四郎左衛門も、玉川銀行から三五五円の貸し付けを受けているが、一八八五年の茶業者調書には、浅見は「仲買商」として登場する(「神奈川県北多摩郡茶業組合第三号部営業者及炉数調書」)。浅見は玉川銀行からの資金を元に、茶の生産者から仲買商へと転換をはかったのかもしれない。国盛社から玉川銀行へと至る地域金融の資金は、茶業などの「改良進歩」の資金として使われたと考えることができる。