斉藤忠輔が大日本農会に入会し、茶業に力を入れるようになったと考えられる一八八三(明治一六)年は、北多摩郡全体が茶業に力を入れるようになった時期でもあった。この年の九月、第二回製茶共進会が神戸において開かれた。この共進会に北多摩郡から約六〇名が出品し、二五名の受賞者を出している。受賞者の地域別内訳を町村制施行(一八八九年)後の町村ごとにまとめると、砂川村が二〇名(うち一は「精業社」)で、あとは東村山村、小平村、府中町、調布村、神代村各一名ずつである(「褒賞」)。砂川村が圧倒的に多いが、この時点までの大日本農会加入者も砂川村が四名でもっとも多く、あとは大神組合村(現昭島市)三名、東村山村三名、小平村一名と続いている。大日本農会の拠点は、市川、斉藤の東村山、小平地域のほかに砂川、大神地域もあり、実はそちらの方が勢力は大きかったのである。受賞者の数もこの大日本農会の勢力が反映しているといってよいだろう。ちなみに郡長の砂川源五右衛門も砂川村の人物で、この年の四月に大日本農会に入会している。砂川郡長は先に触れたように自由党員となっていたが、このころから自由党を離れ、「改良進歩」重視に転換したと考えられる。この砂川郡長の転換は、砂川、大神地域のみでなく、北多摩郡全体の流れを政治重視から経済重視へと変えることになったに違いない。民権運動はこのころから激化の様相を呈してくるが、北多摩郡では過激な運動はみられない。この背景には、郡長を中心に北多摩郡全体が「改良進歩」の動きを強めたことがあったと考えられる。