茶業組合準則の発布と北多摩郡茶業組合の結成

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北多摩郡から多数の受賞者を出した第二回製茶共進会は、日本の茶業全体にとっても大きな転換点となった共進会であった。この共進会に参加した茶業者が一八八三年一〇月九日より製茶集談会を開き、粗悪茶の改良と「茶業協会」設立について協議をおこなったからである。これは、この年の三月にアメリカの議会が「贋茶禁止条例」を可決したことに対する対応であった。協議の結果、粗製濫造の弊害を取り除くために、粗悪茶を取り締まる法令制定を求めること、茶業者の組合を結成することにまとまり、一一月二〇日、建議書が農商務省に提出された。農商務省ではこの建議を受け、一八八四(明治一七)年三月三日、茶業組合準則を公布した。政府が初めて茶業において、組合結成による粗製濫造の取り締まりに乗り出したのである。準則は「茶業に従事する者は製造者と販売者とを問はす郡区又は町村の区画より組合を設置すへし」とし、組合の目的として「不正の茶は製造販売せさる事」「乾燥法及ひ荷造方を完全にする事」「製茶検査法を設け其正否を鑑別する事」、製品に「組合の名称及製造人販売人の姓名を記する事」の四点をあげた。そして、各府県の便宜の地に取締所一か所を設け、各組合を統轄するとともに、茶業者の取り締まりにあたることとした。ただし、準則は大綱を定めたに過ぎず、罰則規定もなく、実際の取り締まり方法は各組合にゆだねられた。
 神奈川県では農商務省による茶業組合準則の公布を受け、四月八日、「甲第十七号」を発し、準則にもとづいて組合規約を制定して認可を受けるように布達した。北多摩郡では五月八日、「北多摩郡茶業者総代府中駅中島弥兵衛」名で組合規約を提出、同月一三日、認可を受けた。規約制定に際し、斉藤忠輔は西多摩郡平井村(現日の出町)の田中文平から、四月二二日に認可を受けていた西多摩郡茶業組合規則を取り寄せている。斉藤も組合結成に深くかかわっていたものと考えられる。規約では、組合の目的を「茶業上一切の悪弊を矯正し進歩改良(ママ)を図る」こととして、茶業の「進歩改良」をあげた。組合員にかんしては、「北多摩郡内に現住して茶業を営むものに限る」とした上で、「組合締約年限中は全く本業を廃するか又は組合区域外へ移転するの外、決して組合を脱することを得す」として強制加入を求め、「北多摩郡茶業組合印」を捺して県庁の検印を受けた証票を組合員に配布し、その写を店頭に掲出させた。一方、不正茶を製造・販売した者に対しては、「本品を取押へ三年間組合を除名」し、その際には「組合内及其販売先に係る同業組合へ其旨を告知」するとした。県の権力を背景に強制加入を求めながら、期限付きではあるが除名するという矛盾を含む規定であったといえる。組合運営にかんしては、組合長は設けず、組合内を五つの区域に分けて、それぞれの区域から委員を公選し、その公選された委員五名の協議により組合事務をおこなうこととしており、地域の代表性を尊重していた。
 五つの区域は「第一号」から「第五号」と称され、小平は大沼田新田、野中新田与右衛門組、野中新田善左衛門組が「第二号」に、小川村、小川新田が「第三号」に、鈴木新田、回田新田が「第五号」に属した。「第二号」の委員が市川幸吉、「第三号」の委員が川鍋八郎兵衛(芋窪村、現東大和市)、「第五号」の委員が斉藤忠輔であった。

図1-18 「茶業組合規約書」 1884年5月