茶業者が多かった「第三号部」

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北多摩郡茶業組合内が五つの区域に分けられ、小平の村々が三つの区域に分属していたことについては先に触れた。その区域は、一八八四(明治一七)年六月に連合戸長役場制が実施されるにともない、六つに再編された。小平は連合戸長役場の設置により現在の小平市域を形成するのであるが、このとき、小平の村々は田無町とともに「第三号部」に属することになった。表1-20が各号の委員、総代人、町村数をまとめたものである。総代人は各村一名ずつの世話掛から公選され、総会に参与できる役職で、部内の人数が一〇〇名以下で一名、以後、一〇〇名ごとに一名増員と決まっていた。四人なら三〇一名から四〇〇名ということになる。五号部が委員二人となっているのは、川鍋八郎兵衛が郡部取締所頭取になっていたためである。これをみると、第三号部が最も村数が少なく、一村あたりの茶業者数が一番多かったことがわかる。三号部の営業者数の調書(表1-21)をみると、製茶業、茶商を合わせた数が、一八八五年で田無町は三四名、小平は二九〇名である。小平の茶業者の方が、田無町よりも密度が高かったことがわかる。同年の一一月二六日に開かれた組合の総会も、小川村吉見屋において開かれた(「勧第弐百八拾二号」)。この時期、小平は茶業の一中心地となっていたのである。
表1-20 北多摩郡茶業組合各号の町村数、委員、総代人
町村数委員総代人
第1号26中島弥兵衛(府中駅)中村喜三郎(平兵衛新田) 鈴木作左衛門(恋ヶ窪村)市倉房次郎(内藤新田) 中島弥兵衛(府中駅)
第2号45富沢東作(深大寺村)富永銀之助(小足立村) 高橋順吉(入間村)富沢東作(深大寺村)
第3号8斉藤忠輔(回田新田)小山平左衛門(田無町) 立川勝五郎(小川村)當麻半重郎(大沼田新田) 斉藤忠輔(回田新田)
第4号17村野七郎(柳窪村)村野七郎(柳窪新田) 篠宮八郎兵衛(南沢村)三沢辰五郎(前沢村) 比留間清十郎(南秋津村)
第5号14市川幸吉(大岱村)
川鍋八郎兵衛(芋窪村)
市川幸吉(大岱村) 川鍋八郎兵衛(芋窪村)立川伊兵衛(粂川村) 尾崎直治郎(高木村)榎本利右衛門(横田村)
第6号16梅山小三郎(砂川村)梅山小三郎(砂川村) 吉沢市之丞(砂川村)中島治郎兵衛(立川村) 指田忠左衛門(上川原村)
(出典)「神奈川県武蔵国北多摩郡茶業組合規約追加改正」(當麻家文書H6-9)より作成。

表1-21 第3号部の営業者数
 製茶業茶商
人数人数売上高
18841885188418851884188518841885
小川新田494911611433423423
小川村10310442635243685685
鈴木新田373958860100
回田新田6933470100
野中新田善左衛門組212275860000
野中新田与右衛門組212666800000
大沼田新田33331101060000
田無町333483680000
3033169679397811081108
(出典)「明治一七年第五月起 神奈川県北多摩郡茶業組合第三号部 営業者及炉数調書」(斉藤家文書H6-4)より作成。

 再編前の第五号部委員に引き続いて、三号部委員となっていたのが斉藤忠輔である。斉藤は総会直前の一一月一二日、当時、『大日本中央茶業組合本部報告書』が北多摩郡茶業組合本部へ一冊だけ送られていたのに対し、府中にあった事務所は「遠隔」で見に行くには不便なので、特別にもう一冊配与してほしいとの「請求書」を出している(近現代編史料集⑤ No.一九)。さらに、一六日には、田無町戸長役場宛に第三号部の会議をおこないたいので、田無町の世話掛を知らせてくれるよう依頼している(近現代編史料集⑤ No.二〇)。斉藤が茶業組合内で積極的に動いていたことがわかる。斉藤が開催を呼びかけた会議で決定されたと思われるのが、同年一二月の記載がある「北多摩郡茶業組合第三号部申合仮規約書」である(近現代編史料集⑤ No.二一)。この申合では、「茶業に関する利害得失は公論協議して国家の公益を計画すること」として、「国家の公益」という言葉を使っている。「国益」をあげた「国盛社」と同一の意識のもとにあることがわかる。注意しておきたいのが第七条で、「毎年発第以前に於て、摘賃及職工日当茶製に傭する臨時雇人の給料等協議決定すへし」としている点である。粗製濫造の防止という役割だけでなく、雇い人賃金などの協定による茶業者の利益確保という役割をもつ組織としても、組合を運営しようとしていたのである。