近世後期以降、小平には多くの手習い塾があった。少なくとも計一七人の手習い師匠が確認でき、読み書き、そろばんのみでなく、儒学や算学まで教えられていた(近世編第三章二節・三節)。女子が学んでいたようすも確認され、残された手本や往来物からは、いろはや名頭(ながしら)などの語彙、江戸や近郊農村の地名、商売往来や百姓往来など職業とかかわるもの、消息往来や触書・高札・証文を筆写したもの、女子向けに特化されたものなど、多種多様な内容が教えられていたことがわかる。
さらに、初等教育段階の手習いにとどまらず、村役人層を中心に俳諧が広まり、小文化圏が形成されていた。たとえば回田新田の名主斉藤忠輔は、玉桜の号をもって周辺の人びとと句集を作成し、句会を開催するなどしていた。玉桜の号は、回田新田が玉川上水桜堤に面していることにちなんでおり、小金井橋の北岸にある鈴木新田の柏屋(口絵1)は、多摩地域でも有数の文化発信地であった。
近世後期から明治初頭にかけての小平には、手習いから算学・漢学へ、さらには俳諧文化圏の形成にいたる一定の教育・文化の仕組みがあった。そのようななかに、明治政府により新たに「学校」という教育の仕組みが導入されたのである。地域はその受容をめぐって、さまざまな対応を迫られていくことになる。