実際の教育政策は、藩や府県ごとに個別におこなわれていたが、廃藩置県後の一八七三年に発布された「学制」により、統一的におこなわれるようになった。学制は欧米の学校制度を参考にしたもので、手習いや郷学校でおこなわれていた儒教的な教育を批判し、実学を重視する方針をとった。学区制を取り入れて全国を八大学区に、大学区を三二中学区に、中学区を二一〇小学区に分け、それぞれに大学・中学・小学を設置することとした。また、中学区ごとに区長・戸長の中から学区取締を任命し、中小学区を管轄させた。小学校は人口六〇〇人に一校を想定し、学費は入学者の親の負担とした。
神奈川県では学制を受けて、学制を解説した「就学告諭書」を作成し、村々へ配布した。一八七三年三月には「神奈川県学制」を制定、小学校の設立が本格化する。神奈川県学制では筆学所(手習い)を廃止し、教師は試験をしたうえで任用し、七歳以上の者に就学義務があることを定めた。そして、小学校を下等四年(六から九歳)、上等四年(一〇から一四歳)の二段階に分け、授業では認められた書籍のみを用いることも定めた。
図1-19 卒業証書 1877年3月
小平では、野中新田与右衛門組の高橋定右衛門が学区取締に任じられ、正確な設立時期は不明なものもあるが、一八七三年より順次小学校が設立されている。それをまとめると、以下のようになる。
協同学舎
一八七四年六月一日、小川村の小学校として小川村妙法寺に設立。本堂を仕切って校舎にあて、三級から八級までの各教場と教師居間が設けられた。
新〓(しんよ)学舎
小川新田・回田新田の小学校として、一八七四年八月二八日、小川新田熊野宮宮崎家建物を借り受け改修して設立。教師も熊野宮神官の宮崎久榎が勤めた。宮崎は一八六七年から六九年まで清水村(現東大和市)の清水太一郎に従って修学修行しており、六九年から七三年までは小川村宮崎義智(神明宮神官)に従って皇学漢学修行をした村の知識人であった。熊野宮では手習い塾も開いていた。
文〓(ぶんよ)学舎(文〓学校)
野中新田両組・大沼田新田の小学校として、一八七三年頃、野中新田与右衛門組名主の高橋定右衛門(恭寿)宅に設立。先代の定右衛門は自宅で手習い塾を開いていた(御門訴事件で牢死)。定右衛門は一一大学区の学区取締でもあった。その後大沼田新田泉蔵院に移転した。
櫃玉(ひつぎょく)学舎
一八七四年頃、鈴木新田の小学校として、鈴木新田佐藤助右衛門宅に設立された。
以上のように、小平の小学校は、村役人層の家屋敷や寺を借り、教師も村役人層が負担することではじまったのである。