明治初年の生徒と学校

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九小区に設立された協同学舎(のちに小川学校と改称)・新〓学舎の一八七四(明治七)年から七六年までの設立当初のようすを、九小区会所の記録からまとめたのが、表1-22である。
表1-22 協同学舎・新〓学舎概要
 協同学舎新〓学舎
 187418751876187418751876
人口133113311148607608603
667667580292300295
664664568315308308
学齢人員18023022896110114
91126121475551
89104107495563
就学5980112453746
395978252733
202134201013
不就学121150112517362
526743232815
698369264547
単位:人
(出典)斉藤家文書「九小区 書上留」より作成。

 協同学舎では、学齢人口は三年間で一八〇人から二二八人に増加する。就学者は一八七四年に五九人だったのが一八七六年には一一二人に増加し、学齢人口の約半数が就学していた。男女別では、男子の就学者が多く、一八七六年には学齢人口の六割以上が就学している一方、女子の就学者は三割にとどまった(一八七四年の二割から増加)。一方、新〓学舎では学齢人口は九六人から一一四人に漸増するが、就学者は四五人から四六人と、ほぼ変わらない。男女別でみると、男子は六割程度が就学しているが、女子は一八七四年の四割程度から、一八七六年には二割まで低下している。以上のことから、開校当初の小平の小学校では、学齢人口の半数以上の男子が就学するようになる一方、女子は二割から四割程度しか就学しておらず、女子にとって、小学校は通学することが必要な場所とは認識されていなかったことがわかる。
 小川学校については、一八八三年の詳細な記録が残されている(表1-23)。ここから就学状況をみると、六歳と一二歳以上の就学率がきわめて低いことがわかる。七歳から一〇歳までの年齢では学齢人口の六割以上が就学しており、一〇歳では九割が就学している。しかし、一一歳で五割、一二歳で四割弱、一三歳で三割弱と就学率は低下する。男女別でみると、男子は六歳と一三歳が三割強である以外、七歳から一〇歳までは一〇割前後(他村からの入学者もあったため、小川村の学齢人口よりも就学者が多い場合がある)で、一一歳で七割弱、一二歳で五割強と低下していく。小川村の男子では、七歳から一〇歳の間は就学することが定着しつつあったといえる。一方、女子では六歳が一割強、一二・一三歳が二割と低く、七歳から九歳も三割程度と、男子と比べて就学率は低い。一〇歳がピークだが、それでも六割である。小川村の女子では、一〇歳前後の期間にはある程度就学するものの、男子のように一定の期間就学するようにはなっていなかったことがわかる。
表1-23 1883年小川学校の就学状況
 学齢人員合計就学合計不就学
未修学
合計職業就学不就学人口
無事故有事故
6歳15163152722228庶業  737718
7歳1211231241622329  
8歳121325144183243128062
            3034
9歳201737176232232943
10歳1311241572222531252
11歳15163110717223411  
              
12歳1314277310222511労力  
13歳121022426221611  
総計11210822084351191716232783合計1191011455
単位:人
(出典)「小川学校表」より作成。

 不就学の内訳をみると、「無事故」と、特に事情がないのに不就学であるものが男女ともに四割を占めている。「事故」の内容の詳細は不明だが、就学・不就学者の職業の九割以上が農業であることを考えると、理由の一つとして、農家では小学校の一〇歳前後までは、読み書き算(そろばん)などの農家の生活に必要な基礎的な能力を身につける時期として受け入れていたが、それ以上は、小学校に通う必要性を感じていなかった、という点をあげることができるだろう。
 神奈川県は、就学率を上げるべく布達を繰り返す一方、手習い・私塾に対する統制を強めている。小学校の就学率が上がらない理由の一つに、学校に通うのが不便な地域で、私塾などを設立する動きがあったからである。次にこの問題についてみておきたい。