一八八〇年に出されたこの学校分離伺によると、分離を求める理由は「組合遠隔にして生徒通学相成りがたく」という、学区拡大による通学困難であった。このとき、集成学校の学区村々は、あらたな学区を、①鈴木新田、②小川新田、③野中新田善左衛門組・同与右衛門組・大沼田新田、④鈴木新田字上分・回田新田・小川新田字山家・野中新田善左衛門組字堀端、の四学区とすることを申請し、それぞれに新たな小学校を設立する計画をたてた。その結果、①では鈴木学校を引き継いだ鈴木小学校が、②では新〓学校(一本榎学校)を引き継いだ新〓小学校が、小川新田熊野宮から小川新田平安院に移転して設立された。③では野中新田与右衛門組の高橋熊太郎宅に移転して、野中小学校を設立した。野中小学校は、集成校分離に際し、大沼田新田との学区の分離を決めるが、大沼田新田は単独ですぐに小学校を設立することができなかったので、三年間だけ野中小学校の学区となる約定を交わした。大沼田新田は一八八四年、大沼田新田泉蔵院に新〓学校を設立した。④の学区ではこのとき、小学校を設立することはできなかった。これは、④の学区が回田新田と各村の飛び地から構成されていたためで、一村一校の方針により飛び地の児童もそれぞれの本村の小学校に通うべき、とされたからである。回田新田は戸数二〇程度の小村で、独自の小学校をもつ力はなかった。
図1-20 小平小学校学区図
以上みてきたように、小村の場合、県が求める規模の学校を単独で設立することはできず、村の連合による学区の設定が求められた。しかし、連合による学区では、学校の位置により通学困難という問題が生じることとなった。そのような困難が生じた地域で、私塾などを設立する動きが起こったのである。