身近な小学校を求める動き

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一八八〇(明治一三)年五月、回田新田戸長の斉藤安在(忠輔)ら三名から、私立学校開業の申請が出される(「私立学校開業開申」)。設立の理由は「資力に乏しきか又は父兄の営業を助け就学する能はざる者の為に設ける」とあり、学費の支払いが困難な家、あるいは、農作業などの家業を手伝うために、小学校のカリキュラムに従って就学するのが困難な者のために設立したいということであった。設立願書によると、学校は斉藤家の敷地内に建てられ、校名は桜蔭学校、授業料は貧富に応じ資力に乏しければ無償でもかまわないとされている。また、教育内容は、等級・教科は各自の望みに任せ、本人の営業上に有益なる書を教え、習字についても各々の適宜に任すとされた。これは、各自の学習段階や目的に応じて教える手習いと同じ方法である。鎮守祭も学校の休日とされていた。農家の生活に配慮した学校であることがわかる。教師には元佐倉藩士安並賢輔が招聘(しょうへい)された。
 大沼田新田は野中新田と同じ文〓学校の校区であったが、野中新田との間で学校の運営や立地をめぐって折り合いが悪かった。そこで、大沼田新田戸長當麻弥左衛門は、自宅に私塾を設立しようとした。しかし、その準備のさなかの一八七八年、一一大区の学区取締下田玄造より、学齢前後の児童を集めて変則授業をしようとしているのではないかと告発され、そうした授業は「公立学校の妨害を相醸し不容易」と、厳重に取り調べるとの通達が発せられた(近現代編史料集⑤ No.一二)。神奈川県は、私塾の設立自体は、やむを得ない事情があれば許可するとしていたが、あくまで公立学校の趣旨や内容を侵害しない限りにおいてであり、そのような可能性があれば、厳しく取り締まったのである。
 一八七九年、先にみた④の学区にある字上鈴木・字堀野中・回田新田から「簡易小学願」が出された(近現代編史料集⑤ No.一三)。願いには小平周辺地域の小学校が青梅街道沿いに立地しており、五日市街道沿いの集落から通うのは難しく、また五日市街道沿いの集落は「僻陬(へきすう)の村落」で「余業等更にこれなく農事一般殊に痩薄皆畑の土地」の寒村であるため、学費を支払うのも困難なので、「小学教則」にのっとり簡易小学を、堀野中の閑翁庵という小堂に設立したいと書かれている。これにより、学費が減免されて不就学者が減ると同時に、五日市街道沿いの幼童も通うことができるというのである。さらに「農事の手伝いも差閊(さしつかえ)これ無く」と、就学児童達が農業を手伝ううえでも問題がないとした。五日市街道沿いの地域に学校を求める要求は、一八八四年にようやく実現し、同年一月、回田新田の桜蔭学校をあわせて、閑翁庵に桜樹学校が設立された(のち回田新田斉藤家に移転)。
 以上のように、小学校は明治一〇年代になると、一〇歳前後の男子を中心にではあったが、徐々に受け入れられるようになっていた。しかし、小さな村では単独で小学校を設立することは困難で、連合によって学校設置がおこなわれることになった。ところが、連合は学区の拡大となることから、通学困難という問題を生んだ。その結果、身近な地域に「簡易学校」や「私塾」を設立する動きが進む。これらの学校は、農家の生活のリズムを尊重するなどの傾向が強かったため、県からは公立学校の内容を否定するものとして警戒されたが、結局、県によって設立が許可され、地域の教育の一翼を担っていくことになったのである。

図1-21 明治期小平小学校変遷図