明治政府は一八六八(明治元)年一二月、従来の医療は、知識や技術のない者が効能の確かでない薬を処方し、そのことによってかえって命を危険に晒すようなことさえあったと指摘し、維新ののちはこのようなことを防ぐため、医学所を中心に、医師としての知識や技能を試験し、合格した者に免許を発行し、免許を持たない者は医療に従事することを禁止するという布告を発した(『明治年間法令全書』第一巻)。明治政府は、従来の医療を未開で非科学的なものと捉え、それを文明化することが、国家としての使命だと考えたのである。
一八七三年、明治政府は「医制」を発布し、さらに翌七四年には医師試験法を、七五年には医師学術試験規則を制定した。この一連の制度改革により、医師免許試験が制度化されることになる。試験科目は洋科六科目(解剖・生理・病理・薬剤・内外科・病状処方並手術)と定められ、試験に合格すると医学卒業証書を与えられた。そのうえで、内科・外科・産科等の科目で二か年以上の実地研修をおこない、はじめて医師免状が発行され、開業が許可されるのである。それまでの、とくに試験もなく、自己申告で開業できた段階からは劇的な変化であった。
ただし、一時的な無医状態を防ぐため、すでに開業している医師には試験を課さず、これまでの医療履歴と治績を審査して、二等に分けて仮免状を発行し、これまでどおり開業することを許した。しかし、試験科目が洋科六科目とされたため、既開業医をのぞき、新たに漢方のみによって医師になる道は閉ざされてしまった。そのため、漢方中心の従来の地域医療との間に摩擦が生じることになった。また、地域の医師は、伝染病対策や衛生環境整備、警察のもとでの検死なども担わされたことから、生命をめぐる価値観などをめぐって、あらたな課題も突きつけられた。以下、小平で開業・診療していた医師の記録から、医療の変化のようすをみていきたい。