幕末~明治期の小平の医師

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近世後期の多摩地域では、村役人が率先して医師を獲得し、あるいは自ら医師となるなどして医師を確保してきた多くの例がみられる。これまでに多摩の医師として、その医療行為が明らかにされてきた人物は、下谷保村(現国立市)の本田覚庵、国分寺村(現国分寺市)の本多雖軒、小金井村(現小金井市)の渋谷安斉、田無村(現西東京市)の賀陽玄雪、中藤村(現武蔵村山市)の指田藤詮らである。ほかにも多くの医師がいたと思われるが、小平でも近世後期から明治初年にかけて医療に従事していた在村医が、複数確認できる。
 小川新田の小川準平(重好・杏斎)は村役人自身が医療に従事した医師のうちの一人である。準平は小川新田の名主家に生まれ、名主を隠居したのち、医療活動に従事したようである。準平の医療行為については、隣村国分寺村の医師本多雖軒が、「邑長兼医術而救〓疾。至数千人。於是闔村闔郷不分老少。無不知小川家者」と評している。準平は、村役人としての使命感から医療に従事していたのである。準平には一八七五(明治八)年の処方記録(「丸散膏法簿」)が残されているが、そこから、小川村・小川新田を中心に、小平周辺が医療圏であり、漢方薬を処方することが主な治療だったことがわかる。

図1-22 小川準平処方記録(「丸散膏法簿」)1875年

 準平の娘は本多雖軒に嫁いでいる。雖軒も、小平の医療を考えるうえで、重要な役割を果たしていた。雖軒は、国分寺村名主本多家に生まれ、「青雲の志」により医学を志し、一八五一(嘉永四)年、下谷保村(現国立市)の医師本田覚庵に弟子入りする。覚庵は幕末期の多摩地域を代表する医師・文化人で、みずから医療に従事するとともに、多くの弟子を迎え、地域医療の再生産の拠点となっていた。小平でも大沼田新田年寄伝兵衛の息子弘二郎が弟子入りしている。その後、覚庵のもとを出た雖軒は、一八六一(文久元)年に府中宿(現府中市)で開業、一八六五(慶応元)年より、国分寺村で開業する。雖軒について特筆すべきことは、一八七三年以降の治療・診療・検死記録を、一八九八年まで六冊にわたって残していることである。この記録は、当時の医療や生命をめぐる多くの情報を与えてくれる(『国分寺市史料集 四 本多雖軒関係』・『国分寺市史 下巻』)。雖軒の医療圏は小平にもおよんでいたため、この記録から、小平の人びとがどのように医療を受け、どのように一生を終えていったのかについても多くのことがわかる。このことについては、あとで触れたい。
 多摩地域の医療の特徴として、江戸とのつながりから西洋医学が比較的早く導入されてきたことが指摘されている。小平にも西洋医学を学んだ医者がいた。小川村の宮崎義智・杉太郎親子である。宮崎家は小川村鎮守神明宮神官の家である。履歴によると、義智は一八五八(安政五)年正月より、小石川(現文京区)の西洋医師伊東南洋に師事し、一八六二年四月までの四年八か月間、西洋内科の修行をし、同年九月より一八六七(慶応三)年三月までの四年七か月間、芝源助町(現港区)の戸塚静海のもとで西洋医学の外科・内科を修行するなど、江戸で九年間にわたり、西洋内科・外科の修行をおこなった。義智が師事した伊東や戸塚は、幕末期の日本を代表する西洋医師であり、江戸市中の庶民に対し、種痘やコレラの対策を講じたことで知られている。とくに、義智が伊東に師事しはじめた一八五八年は日本中でコレラが大流行した年で、彼は間近でコレラの脅威と、それに立ち向かう最先端の伝染病対策を体験することになった。この経験は、小川村に戻って以降の義智の医療活動に大きな影響を与えたと思われる。一八六八年三月、小川村神明宮敷地に宮崎診療所を開設した義智は、小川村を中心とした小平、砂川村(現立川市)・後ケ谷村(現東大和市)など、青梅街道沿いの村々の人びとを対象に医療を開始した。
 小川村では宮崎家のほか、日枝神社神官山口家も医療に従事していた。維新期の当主山口広泰は、明治一〇年代の医療記録に名前がみえ、息子の広徳は軍医も勤めた。
 一八七六年の九小区の記録には、「西洋医・外科」の宮崎義智、「漢方医・外科」の山口広泰、小川新田の「漢方医」小川道博の三人が記されている(「書上留 亥第壱号」)。明治初期の小平では、西洋医と漢方医の両方が医療活動をおこなっていたのである。