本多雖軒の治療記録

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宮崎家や国分寺の本多家には、明治期の医療記録が残されている。それは大きく二種類に分かれる。一つは治療・診療・施薬の診断記録であり、もう一つは、人の死因を評価する検死記録や死亡届である。この二種の記録が残されているのは、当時の医師が医療従事者であるとともに、警察の管轄下で死者の死因を確認する役割も担っていたことによる。医師に死者の死因を評価する役割が法的に課せられたのは、一八七六(明治九)年に死亡届の制度が施かれてからで、一八七九年には出生・死亡・流産などにかんする統計である衛生表の作成が命じられ、地域の医師が衛生委員としてその表の作成に従事するようになった。これら二種類の記録から、当時の人びとがどのような病に罹り、どのように死んでいったのかがわかる。まず、本多家の医療記録から、明治期の小平の人びとの生命を取り巻く状況をみてみたい。
 本多雖軒が一八八一年から八二年にかけて診察・検死した患者の治療記録「施治患者表」に記された患者三二四名の年齢・性別分布をまとめたのが表1-24である。年齢でもっとも多いのは二〇代・三〇代で、二〇代で全体の二割、二〇代・三〇代あわせて全体の三七%を占める。一〇歳未満では、〇歳から三歳の占める割合が高く、六歳以上の占める割合が低い。性別もあわせてみると、男女では女性が全体の六割を占めており、なかでも二〇代・三〇代の女性の占める割合が高く、女性全体の四割、患者全体の二六%を占めている。二〇代女性だけでも患者全体の一五%を占めており、二〇代から三〇代の女性がもっとも診療を受けていたことがわかる。
表1-24 本多雖軒診療者年齢分布(1881~1882年)
年齢全体占有率占有率占有率
0103.13.164.76.342.03
141.213.321.614.821.012.2
2144.343.1105.1
3134.064.773.6
492.875.521.0
530.900.031.5
672.26.821.69.452.65.1
741.232.310.5
830.921.610.5
961.932.331.5
1020.621.600.0
11~15175.212.086.314.194.610.7
16~20226.8107.8126.1
21~306720.737.01713.328.95025.542.3
31~405316.42015.63316.8
41~504112.721.61612.521.92512.821.4
51~60299.0129.4178.7
61~70103.16.243.16.363.16.1
71~8061.910.852.6
81~9041.232.310.5
 324  128  196  
(出典)「施治患者表」より作成。

 次に、これらの患者の診療理由をまとめたのが、表1-25である。雖軒の記録は漢方で記されていることから、病名の分類は困難であるが、記録の傾向に従い、呼吸器系・消化器系・妊娠出産・伝染病・関節炎・痛み・外傷・皮膚疾患・その他と、当時に特徴的な病名として頻出する中暑と驚風に分けた。主な病名は表に記したとおりである。もっとも多いのは呼吸器系で、このほとんどは感冒である。感冒とは現在の風邪のことで、年間をつうじてみられるが、とくに冬期に多い。また、中暑は日射病・暑気あたりのことで、これは夏期に多くみられる。冬に感冒に罹り、夏に暑気あたりになって診療を受けるというのが当時の一般的な通院理由で、これらは年齢に関係なくみられた。二〇代・三〇代の女性に多くみられ、診療理由の中でも二番目に多いのが、妊娠や出産にともなうものである。「産后」という出産後の体調不良がもっとも多く、そのほか妊娠や出産にともなう症状が多くみられる。妊娠や出産にともなう治療は、妊婦や胎児の命の危険にかかわるものであった。
表1-25 本多雖軒の診療理由(1881~1882年)
 患者数主な病名
呼吸器系95感冒・咳嗽・痰泡・流注・喘息
妊娠・出産55産后・妊娠悪阻・経水不調・流産・臨産・帯下・乳汁少
中暑39 
消化器系20下痢・血積・黄疸・脾胃不和・口熱・留飲・酒叡鼻・腹痛
痛み15歯痛・頭痛・指痛・肩背痛・耳痛
外傷11口瘡・頭瘡・喉瘡・下疳陰瘡・口中翻花瘡・打撲
関節炎10風湿
驚風9 
皮膚疾患9疥癬・口中腐爛・眼瞼赤爛・胎毒
伝染病2コレラ
その他59癇症・気滞・積聚・疝気・中毒・血症・白膜水腫眼齲歯・麻痺・吐乳・吐血・脱血・蛔虫・乳腫・遺毒
(出典)「施治患者表」より作成。