次に、宮崎家に残された「検死記録」「検死診断書」などから、検死にともなう記録をみておきたい。死因のなかでも多くみられるのは、妊産婦と胎児・出生児の死である。妊婦の妊娠中の死や流産については、原因として「力役に労働し誘因となり流産す」「夏蚕養蚕桑採として自分持畑へ行く途中にて倒れ」「押て農事を勤め麦蒔仕附け中重き肥し桶を抱え」「妊婦農事に勉励して鍬を持ち開拓中労力して倒る」など、妊娠中も農作業に従事していたことがあげられている(「遠近病者診断死亡書上控簿」)。当時の女性は、臨月まで農家の労働力として労働を余儀なくされており、妊婦の死亡の多さは、こうした習慣に起因していると思われる。
注意しておきたいのは、胎児・出生児の死に際して、警察から、その事件性が注視されていることである。たとえば、宮崎義智が一八八六(明治一九)年に窒息死した初生児の検死をした際、田無分署より「該屍体は流産なりや正産なりや」「該屍致死の原因は故殺なりや病死なりや」の二点をとくに注意するよう指示された(「死亡届」)。宮崎は、正産であり「絞縊死には非る」と思われるとし、ただし、正確には解剖しなければわからないと報告書をまとめている。他の検死記録でも、胎児・初生児の検死は入念におこなわれている。こうしたことが問題となるのは、近世以来、堕胎や間引きの慣行があったことによる。幕府や領主は、人口増加のためにも堕胎・間引きを禁止するためにさまざまな取り組みをしており、明治政府も繰り返し堕胎禁止令を出していた(『出産と身体の近世』)。しかし、こうした慣行はなかなかあらためられなかったため、医師は、府県や警察署のもとで、胎児の生命を監視する役割を担うことになったのである。とくに、難産の妊産婦を診療する際には特別な緊張感があったようで、本多雖軒は、小川村の女性が難産でかつぎ込まれた際、患者の親族から、診療にあたった時点ですでに重篤であったとする覚書を受け取っている。場合によっては、医師が堕胎に荷担したと疑われる場合もあったことから、「我身に及ふ災難を逃れんが工夫」をしていたのである(「遠近病者診断死亡書上之控」)。
宮崎家の記録には、早産や流産などによる妊産婦や胎児の死のようすも記されている。当時の女性にとって、出産が過酷なものであったことがわかる。出産に対する関心は、衛生委員が作成を命じられた衛生表の項目にもあらわれており、出産にかんする項目では、出産の日時に加え、出産区別として「公生・私生の別」と、「正産・流産・死胎分娩」が書き上げられている(「衛生半年表・衛生月表」)。私生児・流産・死胎分娩をあわせて管理することに政府の関心があったことがわかる。同表にはそのほかに、結婚・離婚の項目もある。戸籍が基礎単位とした「家」の構成員を、もれなく把握・管理することも、当時の衛生の役割だったことがわかる。