誕生から第一次大戦期までの村財政

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小平村の誕生から第一次大戦期までの村財政の推移をみよう。史料的制約により、一八八九(明治二二)年から一八九五年までは不明であるが、一八九六年の歳出予算は一五六九円となっている。その後、一九〇四年に四三二一円、一九〇九年に八二〇〇円となり、一九一四(大正三)年から一八年の第一次大戦期は八千円台を推移した(表2-3)。
表2-3 小平村歳入・歳出決算
(単位:円)
 1900年1904年1909年1914年
経常部村税1,9962,7947,2335,604
 うち戸数割1,1381,9196,2994,107
使用料・手数料192328486
交付金11498492475
補助金85279
繰越金531496129596
その他・雑収入6066437411,914
小計3,3544,3358,8138,633
臨時部府補助   207
寄付金   
国庫補助   
小計207
歳入計3,3544,3358,8138,840
経常部役場費1,1861,1131,5031,785
会議費36940202
教育費1,5242,4593,9084,862
土木費55992177
衛生費61216 
神社費  2057
警備費  21
その他・雑支出12 246282
小計2,8544,3195,9497,234
臨時部衛生費 2811
役場費 500
教育費 2,243229
補助費 185
土木費 520
その他・雑支出 155
小計30822,2511,603
歳出計3,1634,3218,2008,838
(出典)「小平村会会議録」(各年)より作成。
(注)1円以下切り捨て。主要費目のみ表示のため合計は一致しない。

 最大の費目は一貫して教育費(小学校教員の給与等)であり、歳出の過半を占めていた。そして、役場費(助役・書記の給与・備品等)がこれに次ぎ、合計で歳出の七割程度に相当する。この時期の歳出の増加にもっとも大きな要因となっているのは教育費である。一九〇〇年時点の村内の小学校は、第一から第四の四つの尋常小学校(四年制)のみであったが、一九〇四年七月、小川新田に小平高等小学校(六年制)が設置された。これにともなって、一九〇四年度は高等小学校の教員給与と新設にともなう備品費などが新たに支出された。その後、同校は一九〇九年三月に第三尋常小学校を併合し、小平尋常高等小学校と改称され、三教室を増築して八学級編成とし、全村の児童の入学を許可することとなった。このため一九〇九年度は、教員給与・備品の支出が増加した。また同年度中には第一尋常小学校の新築もおこなわれたため、敷地購入・建築費用等二二四三円を臨時費として支出している。そして一九一四年には教員の増加にともない給与支出が増加するとともに、一九一〇年に各尋常小学校・尋常高等小学校に設置された実業補習夜学校に関する費用が支出されている。
 こうした経費は主として村税によって支弁されていた。一八八九年四月に施行された市制町村制第八八条によれば、市町村の財源は「財産より生ずる収入」及び使用料・手数料収入を主軸とし、不足のある場合は町村税を賦課・徴収することができるとされた。しかしながら市町村では財産収入は少なく、歳入の大半は本来的には補助的財源に位置づけられていた町村税でまかなっていた。また当該期の市町村は独立税をもたず、国税・府県税の付加税というかたちで徴収された(市制町村制第九〇条)。付加税とは、国や上級の地方団体の課税する租税(本税)に対して、下級の地方団体が一定割合を乗じて徴税する租税である。当時の国税の中心は地租と所得税であり、府県税は地租の付加税(通称地価割)、営業税、雑種税、そして後述する戸数割などであった。市町村はこれらの国税・府県税に一定の割合を乗じた付加税を基本的な収入としていた。
 小平村の村税の大半は戸数割付加税であった。戸数割は一八七八年の地方税規則により設置された地方税であり、他の税収が一定の課税標準にもとづいて税収を算定されたのちに、不足する収入額を各戸に賦課するというしくみがとられた。戸数割の課税標準は不統一であり、市町村ごとに著しい負担格差が生じた。多くの市町村では家計の状況を勘案して課税する「見立割」という方式がとられたが、小平村では基本的に納税額を基準に戸数割を算定した。たとえば一九〇七年は、地租、所得税、営業税(以上、国税)、府税営業税(商業税第七類を除く)、府税雑種税中料理店理髪人税、以上の合計納税額を二七の等級に区分して傾斜賦課された(近現代編史料集① 五九頁)。その後、等級区分はたびたび改訂され、一九一〇年に三〇等級に、一九一四年に五〇等級となり、細分化されるとともに高額納税者への賦課額は次第に増加していった。