キリスト教の小平への広がりと政治活動

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北多摩郡最初のキリスト教の伝道は一八七三(明治六)年一〇月のことで、府中分梅出身で横浜において受洗し、日本基督公会の長老となっていた小川儀綏ほか一名が、比留間七重郎家と小川来助家でおこなった説教であった。このときの伝導は単発的に終わり、キリスト教が定着することはなかったが、一八八三年に日本聖公会による伝道が府中駅でおこなわれ、翌年から定期的な出張伝道がおこなわれるようになったことをきっかけに、府中駅を中心とした周辺地域にキリスト教が広がることとなった。
 一八八五年、宣教師ウッドマンが府中駅に英語学校とともに「府中講義所」を開設、本格的な伝道に乗り出した。その結果、同年一二月に北多摩郡における初の受洗者が生まれた。西府村(現府中市)二名、立川村一名、居住地不明一名の四名のキリスト教徒である。一八八六年になると「小川講義所」も開設され、同年三月には同所で、小野房次郎、町田久五郎、藤野太十郎、内山初五郎、横瀬通理の五名が受洗した。小野は小川新田の人物、町田、藤野、内山は小川村の人物である。横瀬は小学校教員として小川新田へ移り住んだ士族で、講義所は彼の家にあったといわれている。小川講義所では、さらに五月に六名が、翌一八八七年二月には七名が受洗したが、内六名は横瀬姓で、横瀬通理の親族だと思われる。小平でのキリスト教拡大には、外来の小学校教員であった横瀬の果たした役割が大きかったといってよいだろう。図2-1は、一八九〇年までの村ごとの受洗者数の累計をグラフ化したものである。小平が北多摩郡におけるキリスト教の拠点となっていたことがわかる(西山茂「明治後半期における府中聖馬可教会の動向」)。

図2-1 北多摩郡における受洗者の推移(累計)
(出典)西山茂「明治後半期における府中聖馬可教会の動向」の表より作成。

 小平のキリスト教徒で注目しておきたいのが、明治二〇年代に政治活動を積極的におこなった人物が多かったことである。最初に受洗した五人のうち、小野と町田はのちに「正義派十有志」(『三多摩政戦史料』)と呼ばれるようになった北多摩郡正義派の「壮士」で、一八八九年に受洗した野中新田の高橋忠輔も「正義派十有志」の一人であった。小平は前章でみたように、小川地域で一時、民権運動にかかわる動きがみられたものの、その後は政治よりも経済に力を入れ、政治活動からは距離を置いていた。小野はその時期に設立された玉川銀行の発起人の一人となり、その実務を担った人物であった。しかし、明治二〇年代になると、小平は北多摩郡民権派のリーダーであった三鷹村の吉野泰三とのつながりを強め、北多摩郡正義派が結成されると、その拠点の一つとなっていく。その小平正義派の中心にいたのが小野らキリスト教徒であった。
 キリスト教徒となった町田は、受洗した翌月の一八八六年四月、所用で東京に行く際に、本宿村(現府中市)の民権家松村弁治郎から、愛知より上京していた民権家荒川太郎に会って、「当分出京出来ざる」旨の伝言を伝えてくれるよう頼まれた。町田はそのことを荒川に伝えたが、結局、荒川を松村宅まで案内することになった。しかし、松村の私宅は取り込み中で話ができず、荒川と松村は「相携へて町田の同村某家」に行ったが、そこでも話せずに一泊することになった。翌日、「甲府との中間山の中」で荒川は、やっと「私か目的とする処」を松村に話すことができた。ここで話されたことは、最後の激化事件として知られる「静岡事件」のことであった。静岡事件は武装蜂起を企てた事件であるが、同年六月に一斉検挙がおこなわれ、未遂に終わっている。荒川は取り調べのなかで町田について問われ、松村の「懇意なるものなり」と答え、事件について町田にも相談したかとの問いには、「是には謀りません」と応じた(「松村弁治郎の静岡事件関与に関する「荒川太郎参考調書」」「静岡事件に関する「松村弁治郎第二回調書」」)。
 町田が静岡事件にどの程度のかかわりをもっていたかは確認できない。しかし、すでに当時、松村は民権家として知られており、その松村に懇意で協力していたということは、町田が意識的に政治にかかわるようになっていたことを示していよう。この政治活動の開始と、キリスト教との接触のどちらが先なのかは明らかにできないが、キリスト教の信仰という内面的世界の深化と、村を越えた政治活動への参加という外面的世界の広がりが、何らかの共鳴性をもって同時並行的に進んでいたことは興味深いことである。