県会騒動と小平

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静岡事件が発覚した一八八六(明治一九)年は、いったん挫折した民権運動が「大同団結運動」として復活しはじめた年でもあった。同年一〇月、浅草井生村楼(いぶむらろう)にて開かれた全国有志懇親会で、星亨(とおる)が「小異を捨てて大同を旨とすべし」と呼びかけ、国会開設をにらんだ民権勢力再結集の動きがはじまる。翌一八八七年の夏になると、井上馨(かおる)外相の外国人判事を任用する条約改正案が表面化し、「地租軽減」「言論集会の自由」に「外交策の刷新」を加えた三大事件建白運動が大きく盛り上がった。政府内でも谷干城(たてき)農商務大臣や法律顧問のボアソナードらが強く条約改正案に反対した。同年一〇月一日の吉野泰三宛松村弁治郎書簡によると、松村は小野房次郎から「谷干城之意見書」の抜粋録を入手し、小野、町田の二人から「中央政府へ請願とか建白とか云ふて上京せる有志者云々」の情報を聞いている。一一月一五日には、浅草鴎遊館で全国有志懇親会が開かれ、神奈川県からは約三〇名ほどが出席したが、そのなかに小平の小野、町田、清水浩平(小川新田)の名をみることができる(『自由党史』)。小野、町田らは三大事件建白運動の盛り上がりのなかで、活発に政治活動に参加するようになったのである。
 全国的な建白運動が盛り上がりをみせていた頃、神奈川県では県会を舞台にした騒動が起こっていた。それは、一〇月二七日におこなわれた神奈川県有志懇親会に県議の出席者が少なかったことに端を発するもので、「軟弱議員」辞職を求める壮士たちが引き起こした騒動であった。「壮士」とは生業を離れ、自らの危険を顧みずに国事に奔走する青年活動家のことである。大同団結運動後、民権勢力再結集の実働部隊として力を強め、その圧力でみずからの主張を通そうとするようになっていた。小野、町田らもそのような壮士勢力の一員であった。辞職の勧告は、一二月一〇日に北多摩郡出身の県議内野杢左衛門に対して出された勧告からはじまった。勧告は、同年五月二三日に武蔵村山、東大和、東村山、小平、砂川(立川北部)地域を襲った雹害に対して、内野の斡旋で下付された「雹災救助金」の大半が「消失」してしまったことの責任を問うものであった(「内野杢左衛門に対する県会議員辞職勧告書」)。内野はこの騒動のなかで、壮士らに殴打され、そのことをきっかけに県会解散時に県議を退いてしまう。表2-4はこの勧告に署名した一一名である。小野、町田、清水の他、並木喬平(小川新田)、中島勘助(野中新田)、松屋広徳(小川村)が小平の人物で、ここから壮士として活動する者が小平で増えていたことがわかる。
表2-4 勧告書署名者一覧
署名者
小平並木喬平 町田久五郎 小野房次郎 清水浩平 中嶋勘助 松屋広徳
国分寺中村善太郎 市倉房次郎 神山孫治郎
調布中村重右衛門
不明宮崎喜十郎

 この辞職勧告については小野から松村に書簡で伝達され、その内容を松村は吉野に書簡で伝えた。そのなかで辞職勧告に署名した一一名について、「中重・町田・並木三君始め内藤の連中并に各地有力者」と書いている(「吉野泰三宛松村弁治郎書簡」一二月一九日)。「中重」は調布(上石原村)の中村重右衛門のことで、彼は県会解散を受けて一八八八年二月におこなわれた県議選で内野に代わって当選し、同じ調布(上石原村)出身の県議中村克昌とともに、北多摩郡の壮士勢力のリーダーとなる人物である。その中村とともに町田、並木が「三君」とされているところから、小平では小野、町田とともに並木も壮士勢力の一員として重要な役割を果たすようになっていたことがわかる。一八八八年一月二一日に、前郡長の砂川源五右衛門と現郡長の渡辺菅吾を招いた新年宴会が計画されたが、警察の許可が思うように下りず、結局、中止となった。この会の実務を担当し、警察との交渉にあたっていたのが小野と並木であった(「府中での新年宴会開催についての府中警察出頭の景況を伝える並木喬平・小野房次郎の鎌田訥郎宛書簡」、「府中での新年宴会中止に関する並木喬平・小野房次郎の鎌田訥郎宛書簡」)。