七月八日、原町田吉田屋にて通信所事務について協議する懇親会が開かれた。参会者は西南北多摩郡、愛甲郡、高座郡、淘綾(ゆるぎ)郡から集まった「四一名計り」で、窪田とともに通信委員となった森久保作蔵から、通信所についての説明があった。小平からは小野、町田が参加し、発起人の一人であった鎌田訥郎(奈良橋村、現東大和市)宛の書簡で、「皆賛成の様」であったと報告している(「神奈川県通信所設立に関する町田久五郎・小野房次郎の鎌田訥郎宛書簡」)。しかし、維持費の出金方法をめぐって不信感が生まれていた。中村重右衛門が並木に、維持費は郡でまとめて三円五〇銭と話していたが、懇親会では「名々個々の出金」と説明されたからである。また、七月一七日の『公論新報』広告に「通信所賛成委員」として記載された者のなかで、「中川・吉野・中溝・青木・福井の諸子」が新聞紙上へ取消の広告を出すという問題もおきた(「「公論新報」誌上の通信所関係の広告についての町田久五郎の鎌田訥郎宛書簡」)。
図2-2 明治22年運動会収支決算報告 1889年
三鷹市吉野泰平家文書
取消広告を出した人物は、神奈川県の各地を代表する民権派県議であり、県会騒動以来、壮士との対立を深めていた面々である。通信所側が彼らのはっきりとした意志を確認しないまま、当然賛成するだろうとの考えから、「賛成委員」として記載してしまったと思われる。このような通信所のやり方に対し、小野は吉野への書簡(七月二四日)のなかで「兄弟相同様なる挙動のみ働き居る人達には実に閉口仕候」との心情を吐露している。小野らも壮士の一員として活動していたが、通信所設立をめぐる中村、鎌田らの、手続きを軽視した家族内のような甘えのあるやり方に、違和感をもつようになったのである。
結局、通信所維持費については、北多摩郡有力者中よりとして五円を出すことでまとまった。このことについて、中村重右衛門は鎌田宛書簡(一〇月九日)のなかで、「次回は小川諸氏へ御相談の上、御出金相成度候」との注意を与えている。小野、町田、並木らが「小川諸氏」として認識され、中村、鎌田らのグループから、注意すべき対象として扱われるようになっていたことがわかる。実際、小川諸氏グループの活動は活発となっていた。九月九日に第一回北多摩郡懇親会が開催されたが、この懇親会を準備したのは小野、町田であった(近現代編史料集⑤ No.三三)。一八八九年一月一三日には第二回北多摩郡懇親会が開催されたが、この会計報告は並木の名でおこなわれている(「吉野泰三宛並木喬平書簡」二月一五日)。第二回懇親会には七三名の出席者があった。小平からは小野、並木、清水の他に、小川孝太郎、川島秀五郎、野中善平、飯田潤輔、高橋忠輔が参加した(「第弐回北多摩郡有志懇親会々席人名」)。注意しておきたいのは、小川孝太郎は小川村であるが、川島が回田新田、野中・飯田・高橋が野中新田で、野中地域に参加者が増えていることである。すでに内野辞職勧告には野中新田の中嶋勘助が加わっていたが、この時期、野中地域全体に政治活動が広がりはじめたのである。なお、先にも触れたが、高橋は「正義派十有志」となる人物で、小野、町田と同じくキリスト教徒である。高橋が受洗したのは、この懇親会直前の一月四日のことであった。