茶業郡部取締所をめぐる紛擾

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民権派再結集の動きがはじまった一八八六(明治一九)年には、神奈川県茶業組合郡部取締所をめぐる紛擾(ふんじょう)が大問題となっていた。すでに第一章第三節で触れたが、神奈川県の茶業組合郡部取締所は郡単位で設置された茶業組合を統轄し、茶業者の取り締まりをおこなうために、茶業組合準則にもとづいて、一八八四年に設置されたものである。組合では茶業者の全員加入を求め、組合の商標なしの営業を禁止していたが、その趣旨がなかなか徹底しなかったため、郡部取締所は一八八五年六月、その徹底を求め、「違警罪」による取り締まりをちらつかせながら、「組合特務巡査」による巡回をおこなった。しかし、このようなやり方は強い反発を買った。東村山市の市川家文書に「別帳 北多摩郡茶業組合」と題する、茶業組合、郡部取締所をめぐって生じた紛擾についての一八八六年八月二五日付報告文が残されている。この報告文から紛擾の内容をみておくことにしたい。

図2-3 「別帳 北多摩郡茶業組合」 1886年8月
東村山ふるさと歴史館寄託市川家文書

 紛擾は一八八五年以来「数回」あった。同年六月におこなった「組合特務巡査」による巡回への反発がきっかけだったと考えられる。茶業者が組合への「不満足」としてあげた点は三つあった。第一は、組合費、郡部取締所の経費が「過当」であること、第二は、規約を変更して営業上に妨害を加えるような「束縛の手段」を設けたこと、第三は、違反者を警察の手を借りて処し、経費遅滞者をみだりに警察分署に拘引したこと、である。経費の負担、営業の自由への妨害、警察による取り締まり、をめぐって反発が生まれたのである。反発した茶業者たちは、組合の分離独立を申請した。しかし、県令はそれを許可しなかった。結局、組合の各部選出委員の臨時改選がおこなわれることになったが、そこには委員の活動にかんする問題があったと記されている。委員はこのときまだ、一八八四年度の経費収支決算もおこなわず、「歳月を送るのみ」という状態で事務所常務委員は困却していた。そこで、事務所常務委員は、一八八六年六月一〇日、委員の臨時改選を達することにしたというのである。しかし、各部選出の委員は達書を部内に示さなかった。そのため、各茶業者は集会を開いて総代人を選出、総代人による改革がおこなわれることになった。そして七月、旧委員は廃され、新委員が選挙された。選挙の結果、取締所頭取であった川鍋八郎兵衛は六票しか獲得できずに落選、委員だけでなく頭取の地位も失うことになった。報告文によると「目下本郡の改革中」で、それが終わった後に「郡部取締所の大改革を為すとの輿論」であったという。
 この報告文では、紛擾の原因として茶業者の「不満足」を三点あげるとともに、委員改選に立ち至った要因として委員の怠慢をあげているが、第一章第三節でみたように北多摩郡茶業組合の「三号部」選出委員であった小平の斉藤忠輔は大変熱心に活動しており、「営業者及炉数調書」や経費滞納者の書上もしっかりまとめていた。委員の怠慢は、額面どおりに受け取ることはできない。この指摘は、反対者達が自己の主張を正当化するために、一部の怠慢を誇張したものであろう。対立の焦点は、組合や郡部取締所の取り締まりによって「改良進歩」を進めようとした委員等、組合を担っていた茶業者たちと、それに反発して自由な営業を求めた茶業者たちとの対立であったと考えられる。反発する茶業者たちがあげた三つの点は、地租の軽減を求め、言論集会の自由を主張し、警察の弾圧と戦っていた自由民権運動と共通する面がある。組合による取り締まりに反発した茶業者たちは、自由民権運動家たちの思考様式の影響を受けていたといってよいだろう。
 茶業組合の委員改選後の「改革」の行方については、史料が見い出せないため明確にはしえないが、茶業組合の活動を通じた「改良進歩」の活動は一時頓挫し、組合は活動を停止することになってしまったのではないかと思われる。茶業組合の史料が豊富な斉藤家文書を見ても、一八八六年五月の北多摩郡茶業組合委員の「当撰状」を最後に茶業組合の史料が残されておらず、あとで触れるが、一八八七年一二月に「茶業組合規則」が制定された際、新たに組合創立委員を選定するところから、組合結成がなされているからである。