北多摩郡北部蚕糸業組合の結成

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生糸の粗製濫造対策に対しては、政府は早くから積極的で、一八七二(明治五)年に「蚕種製造規則」を、翌一八七三年には「生糸製造取締規則」「生糸改会社規則」を公布していた(第一章第三節2)。しかし、これらの規則は、外国商人から貿易の自由を妨げるとの批判を受け、結局、一八七七年四月、廃止されることになった。その後しばらく、政府主導の粗製濫造対策は講ぜられなかった。
 茶業者の要求を受けて、一八八四年三月に茶業組合準則が制定されると、政府は再び粗製濫造対策に乗り出すようになった。同年一一月二七日、農商務省は「同業組合準則」を制定する。そして、一八八五年六月、繭糸織物陶漆器共進会に集まった蚕糸業者らが蚕糸集談会を開き、「蚕糸条例」発布を建言することを決定すると、農商務省はその建言を受けて、一八八五年一一月、「蚕糸業組合準則」を発布した。蚕糸業組合準則は、茶業組合準則と同様、各府県に取締所を設置して各組合を統轄し、中央に蚕糸組合中央部を設けて、各地の取締所と連絡することを規定した。神奈川県では、一八八六年一月四日、「蚕糸業組合準則」を布達、二月になると各地で蚕糸業組合の設立が相次いだ。四月八日には蚕糸業組合郡部取締所の認可願が出され、同月一三日に許可が下りている。郡部取締所は八王子寺町に置かれた(「蚕糸業組合郡部取締所規約」)。
 北多摩郡では二月八日、郡役所から組合戸長、勧業委員宛に、取締所設置にかかわる「総代人」二名を、三月一二日に「創立委員」を集めて互選したいので、そのように取りはからってほしいとの通達が届いた(「勧第百弐号」)。互選がおこなわれる前日の一一日付で、斉藤忠輔宛に「回田新田蚕糸業組合世話役」「小川新田他六ケ村蚕糸業組合委員」当選の二通の通知が届いているので、この日までに各村で「世話役」が、連合戸長役場単位で「組合委員」が選出されたことがわかる(「当撰状」二通)。おそらく、三月一二日の互選は「組合委員」によって予定どおり実施され、各郡の総代人による会議がおこなわれて、四月八日の取締所認可願の提出に至ったものと考えられる。しかし、北多摩郡の蚕糸業組合の結成は取締所認可より後にずれ込んだ可能性が高い。北多摩郡の組合は、郡で一つにまとまっていた茶業組合とは異なり、北部組合、南部組合、西部組合の三つに分かれて組織された。小平はそのうち、田無町外三八か村からなる北部組合(「北多摩郡北部蚕糸業組合規約」)に属していたが、斉藤家文書の中に「北部事務所」が出てくるのが、六月三〇日の「蚕糸業組合加盟者届」以降のことだからである。神奈川県で蚕糸業組合の組織化がはじまった一八八六年は、北多摩郡茶業組合で紛擾が深刻化していた時期であった。六月一〇日には委員の臨時改選が達せられ、七月には新委員が選挙されている。「北部事務所」宛の加盟届が出始めるのは、ちょうどこの間のことである。おそらく、茶業組合をめぐる対立の影響で、蚕糸業組合を組織するにあたり、北多摩郡を一つにまとめることに困難が生じ、結局、三分されることになって、やっと出発できたのではないだろうか。なお、先にも触れたが、斉藤家文書には茶業組合の紛擾後の茶業組合関係の史料はみられない。それに代わって多く登場するようになるのが、蚕糸業組合関係の史料である。このことは、斉藤忠輔が茶業組合の紛擾をきっかけに、茶業から蚕糸業へと活動の重点を移していったことを反映しているように思われる。

図2-4 斉藤忠輔の世話役「当撰状」 1886年3月