参会者は南北多摩郡のほか、東京府南豊島郡、埼玉県新座郡、入間郡などからの一〇〇余名であった。開会の趣旨を述べたのは吉野泰三で、演説、報告、談話の後に、談話会の継続を提起したのは市川幸吉(大岱村、現東村山市)であった。この提起にただちに賛同した者は四八名で、懇親会で意見を交わしたのち、仮規程を議定して幹事を公選した。幹事は東京府二名、埼玉県四名、神奈川県四名で、神奈川県の四名は、市川幸吉、吉野泰三、下田遊亀蔵、斉藤忠輔であった(「田無町殖産興業談話会報告」)。注目しておきたいのは、北多摩郡の民権運動のリーダーであった吉野と、「勧業の市川」といわれていた大日本農会のリーダー市川の二人の県議が重要な役割を果たし、そこに小平の「改良進歩」のリーダーであった斉藤忠輔も参加しているという点である。談話会が結成された一八八七年は、国会開設に向けた民権勢力再結集の動きが活発になりつつあった時期で、吉野も当然、国会開設に向けての活動(選挙準備)をはじめようとしていたはずである。吉野の談話会への積極的なかかわりは、「改良進歩」に力を入れていた実業者を組織化することが、国会開設に向けた民権派の再構築には必要であると考えていたことを示していよう。談話会が結成された年の暮れに県会騒動が発生、翌年の夏には神奈川県通信所が設立されて壮士勢力が台頭し、吉野らが彼らとの対立を深めていくことについてはすでに触れたが、その対立の背景には、実業者を幅広く結集して政治勢力の形成をはかろうとした吉野の路線と、壮士自身の力で政治勢力の形成をはかろうとした壮士らの路線の対立があったと考えられる。
表2-5 殖産興業談話会幹事の投票結果 | |||
票数 | 氏名 | 村名 | 現市名 |
36 | 市川幸吉 | 大岱村 | 東村山 |
33 | 吉野泰三 | 野崎村 | 三鷹 |
21 | 下田遊亀蔵 | 田無町 | 西東京 |
18 | 斉藤忠輔 | 回田新田 | 小平 |
16 | 江藤栄二郎 | 回り田村 | 東村山 |
8 | 海老沢政吉 | 田無町 | 西東京 |
8 | 内野杢左衛門 | 蔵敷村 | 東大和 |
1 | 刑部真琴 | 田無町 | 西東京 |
1 | 渋谷安斎 | 小金井村 | 小金井 |
1 | 小山平左衛門 | 田無町 | 西東京 |
(出典)「田無町殖産興業談話会報告」(『東村山市史』10)より作成。 (注)上位四名が当選 |