殖産興業談話会の結成

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一八八七(明治二〇)年三月一〇日、田無町総持寺において、殖産興業談話会の発会式が開かれた。設立を呼びかけた「殖産興業談話会を起さんとする趣旨」は、まず「殖産興業」が重要であることは論ずるまでもないとし、すでに公的には共進会、農談会の活動があり、私的には「異苗の試植」など、「改良」を加えて「進歩の捷径(しょうけい)(近道)」を求める活動が盛んであると記す。しかし、「農工の学」は盛んにおこなわれているが、「古来老農良工の経験」は広がっていない。ゆえに、この学術理論と実地経験の両方を結合することが殖産興業には求められており、その実現のために談話会を起こしたいと呼びかけている。発会式では、農学士・農芸化学士の沢野淳による「農事の初歩」と題する演説、神奈川県郡部蚕糸業組合取締事務所の報告、茶樹培養及び製造改良法についての談話などがなされた。殖産興業談話会は「改良進歩」推進を目指した組織であった(『大日本農会報告』六九号)。
 参会者は南北多摩郡のほか、東京府南豊島郡、埼玉県新座郡、入間郡などからの一〇〇余名であった。開会の趣旨を述べたのは吉野泰三で、演説、報告、談話の後に、談話会の継続を提起したのは市川幸吉(大岱村、現東村山市)であった。この提起にただちに賛同した者は四八名で、懇親会で意見を交わしたのち、仮規程を議定して幹事を公選した。幹事は東京府二名、埼玉県四名、神奈川県四名で、神奈川県の四名は、市川幸吉、吉野泰三、下田遊亀蔵、斉藤忠輔であった(「田無町殖産興業談話会報告」)。注目しておきたいのは、北多摩郡の民権運動のリーダーであった吉野と、「勧業の市川」といわれていた大日本農会のリーダー市川の二人の県議が重要な役割を果たし、そこに小平の「改良進歩」のリーダーであった斉藤忠輔も参加しているという点である。談話会が結成された一八八七年は、国会開設に向けた民権勢力再結集の動きが活発になりつつあった時期で、吉野も当然、国会開設に向けての活動(選挙準備)をはじめようとしていたはずである。吉野の談話会への積極的なかかわりは、「改良進歩」に力を入れていた実業者を組織化することが、国会開設に向けた民権派の再構築には必要であると考えていたことを示していよう。談話会が結成された年の暮れに県会騒動が発生、翌年の夏には神奈川県通信所が設立されて壮士勢力が台頭し、吉野らが彼らとの対立を深めていくことについてはすでに触れたが、その対立の背景には、実業者を幅広く結集して政治勢力の形成をはかろうとした吉野の路線と、壮士自身の力で政治勢力の形成をはかろうとした壮士らの路線の対立があったと考えられる。
 
表2-5 殖産興業談話会幹事の投票結果
票数氏名村名現市名
36市川幸吉大岱村東村山
33吉野泰三野崎村三鷹
21下田遊亀蔵田無町西東京
18斉藤忠輔回田新田小平
16江藤栄二郎回り田村東村山
8海老沢政吉田無町西東京
8内野杢左衛門蔵敷村東大和
1刑部真琴田無町西東京
1渋谷安斎小金井村小金井
1小山平左衛門田無町西東京
(出典)「田無町殖産興業談話会報告」(『東村山市史』10)より作成。
(注)上位四名が当選