茶業組合規則の制定と郡長訓令取消問題

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一八八七(明治二〇)年一〇月、中央茶業組合本部幹事長の大倉喜八郎から、茶業組合準則を改定して取り締まりを強化するように求める請願が農商務大臣宛に提出された。中央茶業組合本部は、一八八四年三月の茶業組合準則改定によって正式に設置が認められたもので、その役員は全国の茶業組合取締所の役員より互選されていた。本部は製茶の検査を強化するため、一八八六年二月の第二回本部会議で、輸出港である横浜・神戸・長崎に製茶検査所を設置することを決定、さらに横浜の大谷嘉兵衛などから提案された共同倉庫の設置も、次回の会議で検討することにした。しかし、共同倉庫設置には猛反対が起こり、一八八七年二月に開かれた第三回本部会議では検討することができなかった。このような輸出港における検査体制強化の挫折が、大倉の請願のきっかけとなったといわれているが、北多摩郡茶業組合の紛擾のような、生産地における茶業者の取り締まりに対する反発の存在も、請願の背景としては大きかったであろう。
 大倉の請願を受けて、一二月二九日、農商務省は省令第四号を発し、「茶業組合準則」を廃して「茶業組合規則」を制定した。規則が準則と大きく異なる点は、罰則の規定を取り入れて、取り締まりの強化をはかったことである。罰則が適用された規定は、組合への加入、組合規約の地方長官による認可、組合名義の営利事業の禁止、組合規約の遵守と費用の負担の四点で、違反した者には二円以上二五円以下の罰金が課せられることになった。先に触れたように、茶業組合規則制定時、北多摩郡では組合の活動は停止状態であったと考えられる。そのため、規則にもとづいた新たな組合の結成が開始されることになる。しかし、取り締まりの強化をはかった茶業組合規則による組合の結成は、妨害行動を受けることになった。
 東大和市の鈴木家に残されていた「茶業組合設置之義ニ付伺」によると、組合の結成は郡役所主導ではじまった。一八八八年二月一五日、渡辺菅吾郡長は茶業者たちを郡役所に招集、創立委員を選出するようにとの訓令を発する。続いて同月一八日には、郡役所発「第二四六号」を発し、三月一七日に創立委員を集めて規約を制定し、委員・区画について定めたうえで委員を選定する、との予定を伝えた。ところが、二月二九日、「茶業者中申立の趣これ有に付」、あらためて達しを出すまでは創立委員の選出を見合わすようにとの通知が郡役所より各茶業者に届く。このとき、「申立」をおこなったのが、中村克昌、中村重右衛門らであったことが、『比留間家日記』(一八九〇年一月一四日記事)からわかる。日記によると、郡長の訓令を受けて「郡内過半其主意を奉し委員の投票」をおこなったが、両中村が「関(干)渉に過る」と郡長に迫ったため、郡長はその要求を受け入れて訓令を取り消したという。その結果、組合は「有名無実」となってしまったのである。

図2-5 「茶業組合設置之義ニ付伺」 1888年2月
人間文化研究機構国文学研究資料館所蔵

 ここで注意しておきたいのが、訓令が出された二月一五日と、それが取り消されて委員選出の見合わせが通知された二九日の間の同月二〇日に、県議選がおこなわれていたことである。この県議選はすでにみたように、県会騒動による県会解散命令を受けておこなわれたもので、北多摩郡では内野杢左衛門が引退し、代わって中村重右衛門が県議に当選した選挙である。中村克昌もこの選挙で再選され、引き続き県議となっていた。この時期、両中村は壮士勢力のリーダーとして力をつけつつあり、その二人が茶業組合を「干渉」として否定する行動に出たのである。先に組合による取り締まりに反発した茶業者は、民権家の思考様式の影響を受けていたと指摘したが、二人の行動はその思考様式によるもので、組合の取り締まりによる「改良進歩」の実現を、営業の自由を阻害するものとして否定し、取り締まりに反感を感じていた茶業者を自派内に取り込もうとしたものであったといえる。しかし、この時期、多くの実業者たちは、「干渉」を「改良進歩」を後押しする「保護」(『比留間家日記』)として受け入れるようになりつつあった。吉野らが組織化しようとした実業者は、そのような傾向を強めていた実業者であった。