「経験ある老農工者」と「学士」を招いて講話をおこなうというのは、学術理論と実地経験の結合を目指した殖産興業談話会と同じ考えであり、大日本農会の方針でもあった。農工講話会は殖産興業談話会がおこなおうとしたことを引き継ぐものであったといえる。おそらく、東京府、埼玉県、神奈川県を組織範囲とした殖産興業談話会は、結成後に活動が停滞し、その再生が求められる状態になっていたのであろう。そして、そのような状況を踏まえて、郡の首脳部が茶業組合にかんする訓令取消で揺らいだ勧業策の善後策として、郡単位の農工講話会の結成に踏み切ったのでないだろうか。なお、北多摩郡農工講話会結成三か月前の一月に、南多摩郡でも農工講話会が結成されている。農工講話会設立の動きは各地で起こっていたことなのかもしれない。
市川は検討会開始の前に郡役所を訪れ、渡辺郡長と「本日の集会及ひ茶業組合の件」について「互談」している。茶業組合の問題と農工講話会の結成がセットで議論されていたことがわかる。渡辺郡長は、この日は風邪にて体調を崩し、開会の趣旨を述べたのちに帰宅した。会の審議は高野鉄三郎郡書記の司会で、勧業主任の川崎が議案説明をおこない、市川が議論をリードする形で進められたのである。市川は会場に『大日本農会報告』『大日本農会規則書』『舶来果樹目録』『舶来穀菜目録』などを置き、参加者が縦覧できるようにした。その甲斐あって、会終了後、四ッ谷村(現府中市)の戸長から、同村に大日本農会に加入したいという者が四、五名いるとして入会用紙の請求があり、さらに「続々請求するもの」が続いた。検討会は大日本農会拡大の場としての役割も果たしたのである。実は勧業主任の川崎は、この年の一月に大日本農会に入会している。北多摩郡農工講話会は、市川-川崎の大日本農会人脈で組織化されたものといってよいであろう。川崎はのちに大日本農会北多摩支会が結成されたとき、その幹事長となった。
以上の結成の経緯で注意しておきたいのは、そこに殖産興業談話会で市川とともに中心的役割をはたしていた吉野泰三の名がみられないことである。表2-6が検討会参加者の一覧であるが、参加地域が偏っていることがわかる。具体的にいえば、市川のいる大岱村(現東村山市)周辺と、川崎のいる押立村(現府中市)を中心とする甲州街道地域が多い。茶業組合の郡長訓令取消問題の善後策として、講話会の結成が急浮上し、十分な根回しのないままにスタートすることになった結果かもしれない。検討会において、会の結成は確認されたが、「時期已に製茶及蚕児発生に迫れるを以て」、発会式は九月におこなうことになった。「明治二十二年九月 北多摩郡農工講話会報告」には会員名簿が付いている。この名簿を見ると、吉野泰三も会員となっていることがわかる。また、小平の斉藤忠輔も会員となっている。しかし、会員数は三鷹村六名、小平村四名で、二人の地元は参加者が少なく、多い方から並べると、砂川村三〇名、府中町二七名、東村山村一九名、大神組合村(現昭島市)一七名、多磨村(現府中市)一六名、調布村一三名と続く。会員数の多い町村は大日本農会の勢力が強い地域である。農工講話会は大日本農会と郡役所が一体となって組織した実業者の組織であったのである。
表2-6 北多摩郡農工会会則検討会参加者 | ||
村名 | 現市名 | 氏名 |
中神村 | 昭島 | 岩崎良右衛門(戸長) |
回り田村 | 東村山 | 清水権右衛門 |
野口村 | 東村山 | 斎藤健蔵 桜井彦三郎 小島為三郎 |
久米川村 | 東村山 | 木下喜代吉 桜井寅次郎 |
大岱村 | 東村山 | 市川浅右衛門(勧業委員) 市川幸吉 |
前沢村 | 久留米 | 高橋専太郎(勧業委員) |
柳窪新田 | 久留米 | 住吉伝蔵(勧業委員) 秋田惣七 |
中清戸村 | 清瀬 | 大隅五郎(戸長) |
戸倉新田 | 国分寺 | 戸倉市三郎(戸長) |
境村 | 武蔵野 | 吉野金太郎(勧業委員) |
和泉村 | 狛江 | 石井正義(勧業委員) |
烏山村 | 世田谷 | 吉岡祐蔵(勧業委員) |
四ッ谷村 | 府中 | 市川茂一(戸長) |
是政村 | 府中 | 佐藤伴蔵 |
府中町 | 府中 | 野口久兵衛 関田量兵衛(勧業委員) |
下染屋村 | 府中 | 粕谷助次郎(勧業委員) |
押立村 | 府中 | 川崎平右衛門(郡書記) |
中河原村 | 府中 | 高野鉄三郎(郡書記) |
深大寺村 | 調布 | 富沢松之助(戸長) 井上繁太郎 |
布田小島分 | 調布 | 新川銀司(戸長) |
(出典)「北多摩郡農工会会則」(『東村山市史』10)より作成。 |