三つの組合の分立からはじまった北多摩郡の蚕糸業組合は、聯合蚕種検査所の設置に示されるように、統合の動きがみられるようになったのであるが、組合をめぐる対立は、全国的にも大きな問題となっていた。一八八八年一〇月、農商務省は蚕糸業組合設置方法についての方針を定めるため、蚕糸諮問会を開催した。そこでは種々の意見が出されたが、多くの参加者は「自治団体を以て相互に規約を確守」するのではなく、「政府より規則の大綱を示されんこと」を希望したため、「多年蚕糸業に従事し重大の関係ある実業者」へ農務局長より諮問が出されることになった。北多摩郡蚕業組合北部事務所には、一二月三日付で北多摩郡庶務掛より諮問の依頼が届いている(近現代編史料集⑤ No.五〇)。それを受け、一二月二五日、二六日の二日間、田無町の総持寺において諮問会が開かれた。二五日には一二名が、二六日には三名が参加した。小平からは斉藤忠輔、清水浩平、飯田宇一(鈴木新田)、宮崎久榎(小川新田)、森田(小川村)の五名が参加している(「農務局からの蚕糸業組合への諮問に対する答申関係書類綴」)。
答申では組合の区画について、一郡で一組合という意見と、「当業者の多少に由り一郡に二組合を置、又ハ郡を合併するも妨けなし」とする意見の二つが併記された。後者には「市川幸吉の説少数」と記されている。市川等は理想は一郡一組合としながらも、現実に応じて柔軟に対処すべきであると考えていたのであろう。そうはいっても、複数の場合は「二組合」としており、実際の三組合分立は好ましいことではない、と考えていたこともわかる。「地方取締所若くは聯合会議所を設くる考案」については、「一府県下に蚕糸業組合聯合事務所一ケ所を設くるを可とす」と答申した。その理由について、「従前の取締所と称するものは其名穏当ならさるを以て、動(やや)もすれは各組合に対し干渉に過き、自治の体面を毀損するの嫌ひ」があるが、「聯合会議所にては実際の事業と名実を異にするの恐れ」があるからと説明している(近現代編史料集⑤ No.五一)。自治改進党を結成し「自治の精神を養成」してきた北多摩郡の有力者たちにとっては、「改良進歩」のための「取締」は必要なものと認めつつも、「自治の体面を毀損する」との批判も無視することができなかった。組合は、「取締」と「自治」の間で揺れていたのである。
図2-6 「答申案」 1888年
東村山ふるさと歴史館寄託市川家文書
『神奈川県史通史編6』によると、一八八九年三月二八日、郡部取締所は県知事宛に、「現行郡部取締所規約は往々不適応の条件を生し、県下当業者に対し実施上差支少なからず」として活動の中止を建議し、その業務を停止したという。しかし、市川家文書には、「明治廿二年四月廿二日臨時会に於て受く」とのメモを付した「明治二十二年蚕糸業組合郡部取締所規約更正案」が残されている。活動中止の建議後も取締所存続の動きは続いていたのである。五月二四日には県知事より、「現行準則の適否、組合の利弊等を調査し、旁々前途改良の要件計画中」であるとして諮問案が出された。この諮問案は、区域内営業者の全員加盟を規定する「第一案」と、同意する者が適宜団結して「自由組合」を設けて県知事の認可を受ける「第二案」の二案を示し、どちらを支持するかを定めたうえで、各項目への意見を求めるものであった。市川は「第一案」支持を明記したうえで、各項に対する答申をおこなった(「蚕糸業郡部組合組織ニ付諮問案下付ノ件関係書類綴」)。こののちの蚕糸業組合、取締所の動きにかんしては不明である。