蚕糸業組合設置方法にかんする意見照会

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蚕糸業組合準則が制定され、神奈川県蚕糸業組合郡部取締所設置の許可が下りて四か月たった一八八六(明治一九)年八月一三日、郡部取締所による「蚕種検査規則」が認可された。蚕種検査の実施による蚕糸の品質向上を目指したのである。この規則では、検査をおこなう検査所は取締所または各組合事務所に設置することとされたが、このとき実際に、検査所がどのように置かれたかについては不明である。その後、一八八八年五月四日には、「聯合蚕種検査所規約認可願」が出され、六月二二日に認可されている。これは北多摩郡の三組合と西多摩郡の三組合が共同で一つの検査所を設置しようというもので、設置場所は熊川村(現福生市)であった。この認可については、七月一〇日付で「北多摩郡西部事務所」から「北部蚕糸業組合事務所」宛に通知されている(「第四七号」)。北多摩郡西部蚕糸業組合は大神村外二〇か村を組織範囲とし、大神村に事務所を置いていた(「北多摩郡西部蚕糸業組合規約」)。蚕種検査の実施による蚕糸業の「改良進歩」の動きが、拝島村を挟む北多摩郡西部地域と西多摩郡東部地域(元拝島寄場組合の地域)を中心として強まっていたといえるだろう。
 三つの組合の分立からはじまった北多摩郡の蚕糸業組合は、聯合蚕種検査所の設置に示されるように、統合の動きがみられるようになったのであるが、組合をめぐる対立は、全国的にも大きな問題となっていた。一八八八年一〇月、農商務省は蚕糸業組合設置方法についての方針を定めるため、蚕糸諮問会を開催した。そこでは種々の意見が出されたが、多くの参加者は「自治団体を以て相互に規約を確守」するのではなく、「政府より規則の大綱を示されんこと」を希望したため、「多年蚕糸業に従事し重大の関係ある実業者」へ農務局長より諮問が出されることになった。北多摩郡蚕業組合北部事務所には、一二月三日付で北多摩郡庶務掛より諮問の依頼が届いている(近現代編史料集⑤ No.五〇)。それを受け、一二月二五日、二六日の二日間、田無町の総持寺において諮問会が開かれた。二五日には一二名が、二六日には三名が参加した。小平からは斉藤忠輔、清水浩平、飯田宇一(鈴木新田)、宮崎久榎(小川新田)、森田(小川村)の五名が参加している(「農務局からの蚕糸業組合への諮問に対する答申関係書類綴」)。
 答申では組合の区画について、一郡で一組合という意見と、「当業者の多少に由り一郡に二組合を置、又ハ郡を合併するも妨けなし」とする意見の二つが併記された。後者には「市川幸吉の説少数」と記されている。市川等は理想は一郡一組合としながらも、現実に応じて柔軟に対処すべきであると考えていたのであろう。そうはいっても、複数の場合は「二組合」としており、実際の三組合分立は好ましいことではない、と考えていたこともわかる。「地方取締所若くは聯合会議所を設くる考案」については、「一府県下に蚕糸業組合聯合事務所一ケ所を設くるを可とす」と答申した。その理由について、「従前の取締所と称するものは其名穏当ならさるを以て、動(やや)もすれは各組合に対し干渉に過き、自治の体面を毀損するの嫌ひ」があるが、「聯合会議所にては実際の事業と名実を異にするの恐れ」があるからと説明している(近現代編史料集⑤ No.五一)。自治改進党を結成し「自治の精神を養成」してきた北多摩郡の有力者たちにとっては、「改良進歩」のための「取締」は必要なものと認めつつも、「自治の体面を毀損する」との批判も無視することができなかった。組合は、「取締」と「自治」の間で揺れていたのである。

図2-6 「答申案」 1888年
東村山ふるさと歴史館寄託市川家文書

 『神奈川県史通史編6』によると、一八八九年三月二八日、郡部取締所は県知事宛に、「現行郡部取締所規約は往々不適応の条件を生し、県下当業者に対し実施上差支少なからず」として活動の中止を建議し、その業務を停止したという。しかし、市川家文書には、「明治廿二年四月廿二日臨時会に於て受く」とのメモを付した「明治二十二年蚕糸業組合郡部取締所規約更正案」が残されている。活動中止の建議後も取締所存続の動きは続いていたのである。五月二四日には県知事より、「現行準則の適否、組合の利弊等を調査し、旁々前途改良の要件計画中」であるとして諮問案が出された。この諮問案は、区域内営業者の全員加盟を規定する「第一案」と、同意する者が適宜団結して「自由組合」を設けて県知事の認可を受ける「第二案」の二案を示し、どちらを支持するかを定めたうえで、各項目への意見を求めるものであった。市川は「第一案」支持を明記したうえで、各項に対する答申をおこなった(「蚕糸業郡部組合組織ニ付諮問案下付ノ件関係書類綴」)。こののちの蚕糸業組合、取締所の動きにかんしては不明である。