神奈川県倶楽部の結成

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北多摩郡農工講話会の発会式がおこなわれた一八八八(明治二一)九月から三か月がたった一二月一〇日、通信所の常議員や「通信所賛成議員」らが集まり協議会を開いている。そこでは通信所の性格を転換して、新たに「神奈川県倶楽部」を結成することが話し合われた。倶楽部は壮士である通信委員が実権を握る組織ではなく、地域を代表する常議員に権限を与えており、幅広い勢力の結集を目指した組織であった。実業者との結びつきを強めていた吉野泰三らが、壮士勢力を抑えるべく巻き返しをはかったといってよいであろう。この流れのなかで、元神奈川県令中島信行の発意による神奈川県懇親会開催が計画された。吉野は中島の意を受け、北多摩郡の発起人を依頼する役割を担当し、壮士勢力のリーダーであった中村克昌、中村重右衛門にも発起人受諾の承認をとった。しかし、まもなく両人から承諾取消の通知が届く。通信所の窪田らが、発起人に改進党員がいることを取り上げて、発起人返上を働きかけたからである。結局、懇親会は開催できず、神奈川県倶楽部の結成も足踏みすることになった。
 一八八九年二月一一日、大日本帝国憲法が発布され、同時に衆議院議員選挙法も公布された。間近に迫った国会開設をにらんで、三月二一日には民権派の有志大懇親会が浅草鴎遊館において開催される。そこでは東京倶楽部の結成、関東会への加入、「大同派」への連合が決定された。この懇親会には神奈川県からも三二名の参加があり、内一〇名が北多摩郡、その内六名が小平であった。六名は小野房次郎、町田久五郎、並木喬平、清水浩平、野中善平、飯田潤輔である(「東京倶楽部設立の模様を報じる記事」)。しかし、翌二二日、「大同派」の中心にいた後藤象二郎が逓信大臣として入閣したことから「大同派」は分裂する。神奈川県では四月二〇日に八王子公徳館にて有志会を開き、「大同派」への不参加を決定した。北多摩郡からは吉野、両中村とともに町田が参加している(「鎌田訥郎宛吉野泰三書簡」五月六日)。そして、大井憲太郎らが結成した大同協和会に参加した。このことが契機になって、神奈川県倶楽部の組織化が進展、六月二五日には常議員会が開催されて活動を開始した(「常議員会決定事項」)。「北多摩郡の神奈川県倶楽部会員名覚書」によれば、小平村の会員数は一四名で、北多摩郡で一番多い(図2-7)。小川諸氏(第一節2)の活動が、北多摩郡における小平村の政治的地位を押し上げたのである。小平村のなかで、これまでの政治活動で名前があがっておらず、ここではじめて登場するのは、小川村の小川良助、師岡弥一郎、内山勝太郎と、大沼田新田の當麻朝正、回田新田の斉藤忠輔の四名である。注目したいのは「改良進歩」のリーダーであった斉藤が参加していることである。また、東村山村の市川幸吉も倶楽部員となっている。神奈川県倶楽部は、政治よりも経済に力を入れていた実業者のグループをも巻き込んだ幅広い組織として結成されたのである。

図2-7 神奈川県倶楽部の村別会員数