神奈川県倶楽部の結成が目指されていた時期に並行して進んでいたのが、「北多摩郡倶楽部」の設立準備である。これを推進したのが小川諸氏であった。一八八九(明治二二)年二月二三日付の宛先不明吉野書簡によると、「小川村の有志三名」が中村重右衛門宅を訪れて北多摩郡倶楽部の話をしたが、中村は「位置等の事もこれ有、余り賛成ならぬ」と述べたという。北多摩郡倶楽部は小平村に置く計画であったが、中村はその位置を問題として反対したのである。北多摩郡の運動の拠点が小平村に置かれることで、主導権が小川諸氏に奪われてしまうと警戒心を抱いたのであろう。しかし、北多摩郡倶楽部の設立準備は進められ、寄付金集めもおこなわれた。五月二六日、府中中屋で懇親会がおこなわれ、北多摩郡倶楽部の件が話し合われた。ここで小平村に北多摩郡倶楽部を設置することに対して反対意見が出されたようで、「其実際は異ならさるにせよ、表面丈は小平村会堂の如き姿」となることになった(近現代編史料集⑤ No.三四)。七月一五日、小野は府中町にて両中村と会い、北多摩郡倶楽部について相談をもちかけている。両中村との対立が決定的になることを避け、協調を保とうとしたのであろう。両中村は「兎に角警察へ届け丈はして置け」とアドバイスした(近現代編史料集⑤ No.三五)。北多摩郡倶楽部が開設されたのは八月一日のことである。場所は「小平村野中字上水通」であった(図2-8、近現代編史料集⑤ No.三六)。小川地域ではなく野中新田に開設したのは、政治活動にかかわりはじめた野中地域を育てるという意味があったのではないか。あるいは、小川諸氏がキリスト教徒中心であったことから、あえてキリスト教の「小川講義所」があった小川地域を避けたとも考えられる。吉野から北多摩郡倶楽部に届いた書簡に対し、高橋忠輔が「御書面拝見、委細承知」「本日は小生一人にて誰も居らず候」と記した返書を、みずからの署名に「倶楽部にて」と添書して出している(一〇月五日)。新たに運動に参加するようになった野中新田の高橋が、北多摩郡倶楽部の事務局としての役割を果たしていたと考えられる。
図2-8 吉野泰三宛小野房次郎書翰 1889年8月
三鷹市吉野泰平家文書