一八七二年五月に通船が禁止されてからも、一八七五年まで毎年、表2-7に見るように通船再開を求める動きは続いていた。この一八七五年で動きはしばらく途絶えるが、それはこの年に船溜(ふなだまり)が埋め立てられて通船再開の道が閉ざされてしまったからで、そのことをきっかけに、青梅街道西部地域に培養商会が生まれ、流通の「改良」が取り組まれるようになったことについては、第一章第三節1でみてきたとおりである。しかし、通船への期待は消えてしまったわけではなく、一八八〇年、一八八三年と、通船再開への動きは続いていた。ところが、この一八八三年を最後に、通船再開の動きは完全に消滅する。それは、この年に通船ルートに沿って新宿から羽村間を走る馬車鉄道が計画され、実際に東京府に玉川上水築堤使用の許可申請がなされたからである。
表2-7 通船再開を求める動き | ||
年 | 月 | 事項 |
1872 | 4 | 多摩川羽村以西、玉川上水上流域の村々の者が連名で通船存続願提出 |
7 | 砂川源五右衛門が石神井川ルートでの通船再開願提出 | |
11 | 23か村「船持百人惣代」が代替水路(掘抜)開削による従来水路通船再開願提出 | |
11 | 砂川源五右衛門、指田茂十郎が代替水路(掘抜)開削による従来水路通船再開の調書提出 | |
? | 船持21か村連印で、神田川ルートでの通船再開願提出 | |
1873 | 6 | 砂川源五右衛門らが代替水路(掘抜)開削費の償還見込書を提出 |
1874 | 7 | 指田茂十郎、砂川源五右衛門が荒川ルート開削費の償還見込書を提出 |
1875 | 1 | 指田茂十郎、砂川源五右衛門らが代替水路(掘抜)開削費見込書を提出 |
1880 | 10 | 上水清潔法問い合わせに、指田茂十郎が代替水路(掘抜)開削を主張 |
1883 | 12 | 砂川源五右衛門らが「東京四ッ谷口運河利益予算取調書」を作成 |
(出典)『玉川上水 通船史料集』より作成。 |
馬車鉄道計画は、東京銀座の服部九一らが計画したものである。しかし、この計画は許可されなかった。そこで、岩田作兵衛の助言を受けて、元神奈川県知事井関盛艮(もりとめ)の協力を得、地元の有力者の意見を聞くことになった。初めは青梅に行って石灰の産出が多いことを知り、青梅への延長を考える。ところが、通船で活躍した指田茂十郎(羽村)と田村半十郎(福生村)の意見を聞くと、青梅よりも八王子に延長した方が得策だというので、新宿から羽村を第一着手とし、砂川から八王子を第二着手とする計画に変更し、一八八四年四月、甲武馬車鉄道会社設立の出願をおこなった。その後、「実測の結果に因り線路予算に異動を生じた」(「新八線沿革」)ため、一八八五年五月、路線をさらに新宿から福島(現昭島市)を経て八王子へと変更、あらためて出願しなおした。このルートは一八八六年一一月一〇日に認可された。
甲武馬車鉄道が認可されて一か月程たった一二月一六日、武甲鉄道が出願された。この鉄道の路線は、第一着手が新宿から青梅、第二着手が砂川から八王子というもので、甲武馬車鉄道が最初に考えていたルートの第一着手の終点を青梅まで延ばす案であった。この鉄道の発起人は八人のうち六人が多摩地域の人物で、そこには甲武馬車鉄道に意見を述べた指田と田村、そして通船で二人とともに中心的役割を果たした砂川源五右衛門の息子である砂川憲三がいた。すなわち、玉川上水上流域の通船推進勢力が、武甲鉄道の中心であったのである。甲武馬車鉄道には意見を述べるだけであった指田らが独自に動き出したのは、羽村まで来るはずだった路線が変更されて砂川以西に鉄道が来ないことになってしまったからで、地域の開発を考えてのことであったといってよい。一方、通船実現の際に、船が通るまで様子見をしていた小平村などの玉川上水中流域の地域は、このときも目立った動きをしたようすはみられない。甲武馬車鉄道でも武甲鉄道でも、路線は玉川上水中流域を通る計画であったから、期待を抱きつつ見守っていたと思われる。
武甲鉄道の出願が出されて三日後の一二月一九日、甲武馬車鉄道は馬車鉄道の蒸気鉄道への変換願を提出し、武甲鉄道に対抗した。しかし、それから九日後の二八日に、横浜、八王子の商人などから、八王子から川崎ルートの武蔵鉄道が出願される。東京と結んで地域開発をはかるのか、川崎・横浜と結んで地域開発をはかるのか、という二つの路線の対立が生まれたのである。この対立で優位に立つため、一八八七年一月末、甲武鉄道と武甲鉄道は合同した。そして、二月には「川越地方に枝線を布設するの希望を懐き、乗客・貨物等の踏査を埼玉県に依頼」(「新八線沿革」)する。川越方面の物資をも集積の対象とすることで、甲武鉄道の重要性を高め、武蔵鉄道との認可競争に勝とうとしたのである。このことが、のちの川越鉄道布設の遠因となった。
甲武鉄道と武蔵鉄道の競願は、山県有朋内務大臣が首都東京を中心とする鉄道網の形成を考えて甲武鉄道を支持したこともあり、七月四日に武蔵鉄道の出願が却下されて勝負がつく。そして、一八八八年二月から、鉄道局委託により線路実測がはじまり、三月三一日には本免許状が下付された。六月には工事が開始され、一八八九年四月一一日に新宿から立川間が、八月一一日には八王子まで開通する。この間、路線は玉川上水沿いを離れ、新宿から立川までまっすぐに走る現在のルートに変更された。馬車鉄道から蒸気鉄道に変更されたことで、勾配などの関係から玉川上水沿いでは無理があったからではないかと考えられている。
図2-10 甲武馬車鉄道ルート(新宿~福島~八王子)