移管運動の開始と分裂

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甲武鉄道が開通した一八八九(明治二二)年、多摩地域の東京府への移管を求める運動がはじまった。その中心となったのは、改進派で初代府中町長となった比留間雄亮である。彼の日記によると、運動を開始したのは甲武鉄道が八王子まで開通した八月のことで、同月二〇日に東京市会を傍聴した際、東京日日新聞社社長の関直彦に面会し、その二日後に移管願の文案を同氏に頼んでいる(『比留間家日記』)。比留間が移管運動をはじめた目的は、二つあったと考えられる。一つは町長としての立場からのもので、甲武鉄道の開通により甲州街道の宿場町であった府中町の地位が低下したことを挽回するために、運動のリーダーシップをとることで政治的地位の強化をはかること。もう一つは改進派としてのもので、当時、東京府会で改進党が多数派であったことを利用し、二つのグループの連合で政治的には中立であった北多摩郡正義派を、改進党側に引き寄せることである。
 比留間は彼自身の県議選とともに、移管願に署名を求める活動をおこなった。一〇月七日には、田無町の町長であった下田太郎右衛門を訪問、選挙への支持とともに移管賛成の同意も得ている。青梅街道の宿場町であった田無町も甲武鉄道の開通で、府中町と同様、その地位を低下させていた。ゆえに移管を契機に地域の活性化をはかろうと考えたのである。その後、移管に賛成であった元北多摩郡長の砂川源五右衛門をつうじ、西多摩郡の有力者へも運動を広げていった。一方、改進派と手を組んだ吉野派は、一八八九年段階では移管運動に動いていない。移管の目的の一つが、正義派を改進党側に引き寄せることにあったからであろう。ところが、一八九〇年に入ると、吉野も移管推進へと動いていく。そのきっかけは、吉野の自由党加盟であった。
 一八八九年一二月一九日、大同協和会系により自由党仮結党式が挙行された。翌年一月二一日には正式に結党式がおこなわれるが、そこには北多摩郡から松村弁治郎、町田久五郎らが参加している。『比留間家日記』によると、小野房次郎もまもなく自由党に加盟したようである。小平村の町田、小野らは、自由党の再興に積極的に応じたのである。しかし、吉野の加盟までの過程は慎重であった。それは、自由党への加盟で中立を条件に組織した正義派の分裂を招くことになってしまうと考えたからである。一月二三日の『読売新聞』に、田無町長の下田と吉野が移管の請願をなすことに決定したとの記事が掲載された。これは吉野が改進派の移管運動を正義派全体の方針として受け入れたことを示すもので、改進派に対して正義派の維持を求めるシグナルであった。その三日後の二六日、吉野は小野、松村をともない比留間宅を訪問、自由党加盟の承認を求める。比留間は入党に承認を与え、吉野は翌二月に自由党に入党した。そして、二月二五日、比留間は吉野宅を訪問、「管轄替建白」に吉野の署名を受けた。東京府への移管を正義派全体の方針とすることで、正義派の維持がはかられたのである。

図2-11 比留間家日記 1889年8月
府中市郷土の森博物館寄託

 しかし、移管運動はまもなく分裂し挫折する。それは、一八九〇年五月に「郡制」が公布され、郡の配置分合にかんしてさまざまな要求が噴出するようになったからであった。八月七日、府中町において郡制施行に関する協議会が開かれた。吉野泰三宛比留間雄亮書簡(八月八日)によれば、協議会に参加したのは比留間を含め三〇人で、小平村からは小野房次郎、並木喬平、高橋忠輔が参加した。同書簡、鎌田訥郎宛北条義治書簡(八月一一日)、鎌田訥郎宛中村克昌書簡(八月一二日)および「郡制御施行に関し北多摩郡請願」を総合すると、協議会で意見はおおよそ四つに分かれたようである。①東京府へ移管して東多摩郡との合併を目指す東北多摩郡合併説、②これまでどおり北多摩郡で一郡とする北多摩郡独立説、③三多摩を一郡とする三郡合併説、④未定説の四つである。①を主張したのは、田無町、三鷹村、武蔵野村、久留米村、清瀬村、東村山村、小平村で、中心は田無町であった。「田無町の如きは管轄換を為すときは郡衙(ぐんが)の位置を得んとて熱心にも各村を遊説せんとの意気込」であったという。この田無町の動きは、埼玉県であった保谷村にも合併を申し入れたうえの行動で、東多摩郡との合併によって田無町が郡の中央近くなることを理由に郡役所を誘致して、地域開発をはかろうとする構想であった。②を主張したは府中町、西府村(現府中市)、小金井村、国分寺村、谷保村(現国立市)、多磨村(現府中市)で、中心は府中町であった。田無町が郡役所誘致の手段として東多摩郡との合併を策しているとなれば、府中町が郡役所所在地としての地位を守るために、北多摩郡の独立を主張することになるのは当然のことであろう。③は狛江村、砧村(現世田谷区)、調布村、④は砂川村(現立川市)、大神組合村(現昭島市)であったようであるが、調布村の中村克昌が比留間宛の書簡で独立説支持を表明するなど、地域が一致して同一歩調をとっていたわけではなかったようである。鎌田がいる高木組合村(現東大和市)、中藤組合村(現武蔵村山市)は協議会にも参加していない。この対立の焦点は、郡役所をめぐる田無町と府中町の対立であったといえる。

図2-12 郡制に関する協議会での各町村の意見

 比留間が甲武鉄道開通による府中町の地位低下を挽回するためにはじめた移管運動が、やはり地位低下をしていた田無町を刺激し、移管による東多摩郡との合併で郡役所を誘致しようという構想を生じさせ、地域開発をめぐる対立を引き起こしたのである。移管運動はこのことをきっかけに分裂、挫折してしまう。鉄道の開通という地域開発を刺激する大きな変化は、各地の開発構想を誘発し、地域間対立を激化させることとなった。このことが、「改良進歩」を重視した党派である正義派解散の一つの要因ともなるのである。