仮免許は一八九一年四月一一日に下付された。その後、線路実測がはじまり、一八九二年六月二一日、本免許状が下付されて、用地買収がおこなわれていく。小平村で土地買収のまとめ役となったのは、小川停車場の用地を提供した小川の細田佐十郎であった。小川停車場の設置で、通船でふくらんだ青梅街道西部地域の流通の中心地としての地域開発、という期待が再び強まったのであろう。彼は地元地主から「売却方及家屋移転料取極めの件其他総ての契約」(近現代編史料集⑤ No.四六)の委任を受け、「川越鉄道線路敷地買入主任清水宗徳」(「仮契約証」)との間で交渉をまとめていった。小野房次郎も「買収人」(「意見書」)として動いていたようである。しかし、土地買収はすべてが順調に進んだわけではなかった。一八九三年一二月二日、川越鉄道は「土地収用審査会開設願」を東京府知事宛に提出した。鈴木新田の尾崎兵右衛門の所有地買収で補償金をめぐる対立が生じ、交渉がまとまらなかったからである。会社側は七畝二〇歩の収用地に対し五三円六六銭二厘(一反七〇円)、桑樹五〇本に対し三円の補償金を提示した。これに対し、尾崎は翌一八九四年二月五日に「意見書」を提出し、収用地は一反一五五円を主張、桑樹は一二本で補償金一二円五〇銭と下方修正したうえで、そのほかの作物への補償として茶五間六円二五銭、牡丹二五株七円五〇銭、多種の百合あわせて三六三〇円、移転料として一八五〇円を要求した。会社側は茶、牡丹、百合は「ことさらに植付増加したもの」と主張し、補償金の対象から除外したが、尾崎はそれぞれの作物の栽培開始時期について説明し、ことさら植え付けたものではないと反論した。それによると、桑は三五年前(一八六三年)、茶は三〇年前(一八六八年)に植え付け、牡丹は一八八八年に根分けを買い入れて培養をはじめ、百合は外国輸出品として一八八七年に栽培をはじめたという。百合は一八八八年に横浜商館より注文を受けた際には、近郊の山百合を買い入れて栽培し売り渡していたが、同館より多種の百合の注文があり、一五種の百合の栽培を試みたと述べている。小川新田の小槫太十郎も、一八八九年より東村山村野口の高橋、島田所有地を借りて百合栽培をはじめていたが、補償の対象とならず、補償するように訴えている(近現代編史料集⑤ No.四七)。百合の栽培をはじめたという一八八七年は、北多摩郡の茶業組合が紛擾により活動を停止する一方、殖産興業談話会が結成され、「改良進歩」の必要が強調されていた時期であった。翌年には北多摩郡農工講話会も結成されている。このような時期に、新たな作物への挑戦として百合栽培が試みられた、というのは不自然なことではない。土地収用をめぐる問題を、会社側の主張にもとづき、鉄道建設への故意の妨害行動とする解釈もあるが、むしろ新たな作物へ挑戦していた「改良進歩」の努力と、鉄道開通による地域「開発」への期待とが衝突したものとみた方がよいのではないか。
図2-13 尾崎兵右衛門意見書 1894年2月
東京都公文書館所蔵
収用委員会では鑑定がおこなわれる。その鑑定委員は関係村の地主と他村の地主から構成された。小平村、東村山村関係の問題は一括されて審議されたため、小平村から並木喬平、金子惣八の二名が、東村山村から當麻喜重、江藤源太の二名が、他村からは神代村の富沢松之助、国分寺村の中藤弥左衛門の二名が選ばれた(「鑑定人撰定ノ儀ニ付照会案」)。小平村の二人には二日分の日当(一日一円)、「車馬賃」「汽車賃」としてそれぞれ三円八四銭が支払われている(「川越鉄道敷地ニ係ル鑑定人旅費日当請求金額調書」)。鑑定の結果は、収用地は一反一二〇円、桑は一二株五円二五銭、茶は五間三円五〇銭としたが、牡丹、百合については判定しなかった。採掘して確かめなければ数量が確定できず、また、「栽植の経験並に見聞の熟せるもの」がないので判定ができないというのが理由である。この時期、牡丹、百合の栽培に取り組む者は少なく、並木、金子も栽培の経験がなかったのであろう。土地収用審査委員会の判決は三月二〇日に出された。鑑定書に沿った決定であったが、牡丹、百合については「補償金を得んか為め、ことさら培植せしものと認む」(近現代編史料集⑤ No.四八)とされた。