停車場の位置をめぐる対立

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仮免状下付後の一八九一(明治二四)年四月二〇日、創立委員会が発足し、五月に「川越国分寺間鉄道収支予算表」がまとめられた。そのなかで「停車場設置の予言」として、川越、入間川、所沢、小川の四か所をあげ、小川を停車場候補とした理由として、「諸物産所沢に亜(つ)く、最も多きは蕎麦なり」と書いている。通船禁止以降、小川の流通の中心地としての地位は低下していたが、川越鉄道で北多摩郡地域の物産を集めるとなれば、東西交通との結節点であり、通船の際にも流通の中心地としての地位を強めていた小川しかないという認識が一般的であったのであろう。しかし、停車場に関しては、開通時に問題が生じることとなる。それは柳瀬川架橋の工事をめぐって、会社側と地元民の間でトラブルが起こったことが引き金となって生じたものであった。
 柳瀬川は東京府と埼玉県の府県境を流れる川である。埼玉県側の吾妻村(現所沢市)住民が一八九四年四月五日、川越鉄道の橋梁の設計では洪水の危険があるとして、その設計変更等を求めて訴願を埼玉県に提出した。その結果、工事は中止され、埼玉県土地収用審査委員会が開催されることとなった。審査会の結論に対して住民は納得せず、さらに内務省に訴えた。内務省の決定は一二月一七日になされ、工事は再開する。この間、工事の遅れに対する株主からの苦情を受け、一一月一七日、会社側は柳瀬川手前までの先行営業を決め、はじめの計画にはなかった久米川仮停車場の設置願(「川第壱一三号」)を提出した。この願いは聞き届けられ、一二月二一日、国分寺から久米川間が開通する。柳瀬川にかんする内務省の決定が下された四日後のことである。このとき、小川停車場も開業したが、このことが停車場をめぐる騒動を引き起こすこととなったのである。

図2-14 小川停車場敷地略図 1908年3月

 柳瀬川の架橋工事はその後、順調に進み、一八九五年三月二一日、川越まで全線開通となった。久米川仮停車場は「仮」であったことから、全通とともに撤去された。しかし、東村山村の住民は、全通前の二月二三日、「上願書」を提出して撤去中止を求めた。「上願書」によれば、仮停車場の設置によって「家屋も拾数戸以上に至り、猶追々新築者多く、恰ど一村落を成」す状態となっていたという。だが、三月六日の会社側の返書は、取締役協議会において「新設出願の趣旨に基き全線開通と同時に撤去」(「庶第壱四九号」)と決した、という簡単なものであった。全線開通後になると、「仮停車場付近の村民二、三名」が、小川停車場の位置を北へと移転させる移転願を会社側に提出した。その願いには「小川村民七、八名」も「小川人民総代」として署名していたようで、小川停車場用地を寄付した細田佐十郎らは、「彼等は或る一種不平の徒」で「小川村民総代」ではないとして、願いの却下を会社側に求めている(「久米川村停車場設置に反対の件」)。地域流通網の中心となる停車場の位置をめぐって、小平村と東村山村との間で綱引きがおこなわれたのである。
 東村山村ではあらためて、用地代、その他費用として、東村山村各地域から寄付を集め、会社側に停車場の設置を要求した。会社側もこの要求を受け入れ、五月一日、逓信大臣宛に「東村山停車場設置願」を提出する。この願いは許可され、東村山停車場が八月六日に開設された。この東村山停車場の開設によって、青梅街道西部地域の停車場は二か所となった。その結果、流通の中心地としての小平村の「開発」という細田らの期待は、揺らいでしまったのである。