東京府編入の実現

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川越鉄道の用地買収が進められていた頃、三多摩を大きく揺るがす出来事が起こった。三多摩の東京府への移管である。府中町長の比留間雄亮がはじめた移管運動が、郡の配置分合をめぐる府中町と田無町の対立により挫折してしまったことについては先に触れた。その後、地元からの移管の動きは途絶えてしまう。しかし、移管には、もう一つの大きな要因があった。それは玉川上水の水量、水質の管理の必要から移管が必要である、という東京府側からの要請である。
 玉川上水通船禁止の理由は水質の悪化であった。通船禁止後、東京府は玉川上水敷地の管理権を得るが、一八七三(明治六)年六月、水質、水量の維持のため、沿岸諸村の管轄を大蔵省に願い出た。しかし、これは許可されなかった。一八八六年には、高崎五六(ごろく)府知事と三島通庸(みちつね)警視総監の連名で、西北多摩二郡の移管上申が出される。この背景には、三島通庸と内務省衛生局が連携してつくりあげた、国庫補助を呼び水に府会を動かし、私立の水道会社を設立するという構想があった。実際、東京府会や東京商工会において水道会社の議論が高まり、渋沢栄一らによって水道会社計画が進められている。また、移管の議論の広がりには、上申が出されてまもない七月頃からコレラが大流行し、西多摩郡長淵村(現青梅市)のコレラ患者が汚物を川で洗濯したとの報道がなされ、水道改良への関心が急速に高まっていたことも大いに影響していた。しかし、移管も水道会社も実現はしなかった。
 水道改良の必要性の議論は、東京の都市計画である「市区改正」の議論のなかで進められることになった。一八八八年八月一七日、東京市区改正条例が公布され、一〇月に東京市区改正委員会が組織された。委員会では上水改良の調査を優先して進めることが決定される。一八九〇年二月には水道条例が公布され、水道事業の市町村による公営主義が規定された。そして、同年四月、東京市水道改良設計が決定された。この設計は、玉川上水路をそのまま利用し、浄水場を設けて、そこで水を沈殿濾過したのちに、鉄管によって市内各地に給水するというものであった。浄水場の位置は、設計では千駄ヶ谷村であったが、担当技師の意見によって淀橋町に変更となった。工事の開始は財源調達の問題により遅れたが、一八九二年四月、用地買収議案がようやく市会にて議決され、用地買収がはじまった。そして、九月二一日には淀橋事務所の建設にとりかかった。この建設開始前日の九月二〇日、東京府知事富田鉄之助と神奈川県知事内海忠勝によって三多摩移管を求める上申が出される。東京市の水道改良事業の実現のため、あらためて三多摩の移管が求められたのである。

図2-15 淀橋浄水場全景
東京都水道歴史館所蔵

 ここで注意しなければならないことがある。それは一八八六年の移管上申では、玉川上水が流れる西北多摩二郡の移管要求であったが、今回の上申では三多摩全部の移管が求められたことである。ここには政治的な要因が働いていた。上申は、一〇月一三日に提出された「警視総監の三郡編入上申」によれば、東京府知事の西北多摩二郡移管の提案からはじまったようである。それが三多摩編入に変更されて上申されたのは、「神奈川県知事と事務上其他実際の便否等屡々(るる)熟議を遂げ」(「府知事の三郡編入上申」)た結果であった。つまり、神奈川県知事が玉川上水に直接関係のない南多摩郡の移管を提案したのである。内海県知事が南多摩郡の移管を提案したのは、第二回総選挙での選挙干渉に対する自由党の責任追及の攻撃が強まっていたからで、自由党の牙城である三多摩、特にその中心である南多摩郡を神奈川から切り離すことが必要だと考えたからである。その結果、移管の問題は政治的対立が前面に押し出されることになってしまった。
 一八九三年二月一八日、「東京府神奈川県境域変更法律案」が帝国議会に提案された。会期末の突然の提案で、自由党が猛然と反対を主張した。それに対し、国民協会と改進党は法案支持で審議を推し進めた。地元三多摩でも激しい賛成、反対の運動が繰り広げられた。二月二四日には、反対する町村長が署名する「泣血百拝貴衆両院議員諸君ニ哀告ス」との請願が出されたが、ここに署名したのは西南多摩郡の町村長全部と北多摩郡の砧村、狛江村、谷保村、立川村、中藤組合村の村長であった。法案に反対した北多摩郡の五村は自由党の強い村である。北多摩郡は自由党の地盤を除いて、大部分が移管賛成であったのである。比留間のはじめた移管運動は地域間対立で挫折したが、東京との結びつきの強化で地域開発をはかろうという総論では、北多摩郡はほぼ一致していた。移管が政府側から提案されれば、それに一致して賛成することは可能であった。次項でみていくが、この時期、北多摩政界は吉野派が国民協会に入会し、改進派も改進党とのつながりを強めていた。帝国議会での自由党と国民協会・改進党との論戦は、地元の政治対立の反映であったといえる。法案は帝国議会最終日の二月二八日に可決成立する。移管は四月一日に実施された。

図2-16 「泣血百拝貴衆両院議員諸君ニ哀告ス」 1893年2月
立教大学附属図書館所蔵