正義派解散後の小平

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一八八九(明治二二)年九月に結成された北多摩郡正義派は、翌一〇月におこなわれた県議補選で勝利し、順調に勢力を伸ばしていた。しかし、衆議院議員選挙となると、三多摩全域が一つの選挙区(定員二)となるため、北多摩郡のみの票では勝利は見込めなかった。吉野が再興された自由党に加盟した理由の一つは、南多摩郡の中で壮士排除の動きを示していた「老成家」と連携し、吉野と石坂昌孝(南多摩郡)の二名を自由党候補として決定してもらうことにあった。しかし、この思惑は壮士の力によって阻止され、自由党候補は石坂、瀬戸岡為一郎(西多摩郡)と決定されてしまう。その結果、一八九〇年七月一日におこなわれた第一回総選挙で吉野は落選、三多摩初の衆議院議員は石坂、瀬戸岡と決まった。
 吉野敗北を受け、七月一四日、正義派存続にかんする集会が開かれた。参加者の意見はさまざまであった。小平村から参加した町田久五郎と小野房次郎は、「正義派は速に解散する」が「有無相通するの事は是迄の如くすへし」という意見であった。吉野自身は、集会で出された「正義派は解散するも、広く西南の有志に通じ漸々謀る処ありては如何」(近現代編史料集⑤ No.三八)という意見に、「将来の見込多き哉」(「宛先不明吉野書簡」)と賛意を示した。吉野が北多摩郡のみを組織範囲とした正義派に、限界を感じていたことがわかる。同月二五日には同志者慰労会が開かれた。吉野はここで「暫時退隠の決心」(「渡辺小太郎宛吉野書簡」)を表明し、一同は「将来今日の会同者は何党にも加盟せす、時期の回復を待との一言を以て」(「宛先不明吉野書簡」)吉野を送った。そして、八月一五日におこなわれた会合で正義派は正式に解散を決定する。この間におこなわれたのが、先に触れた郡制施行に関する協議会であった。郡制をめぐる地域間対立が、正義派存続に最後の一撃を与えることになったのである。
 正義派解散から一か月がたった九月一五日、自由党を含む旧自由党系の三派を中心に立憲自由党が結成された。吉野はこの立憲自由党にも加盟した。一一月になると、立憲自由党の一部が脱党して国民自由党を結成する。吉野はこの国民自由党を、壮士ら「私利派」と対立する「道義派」ととらえて参加した。吉野が国民自由党員であった一八九一年二月の記載がある「地租軽減の請願書」が吉野家に残されている。署名者一〇一名の内五九名が小平村の人物で、そのなかには小平村の正義派であった町田、小野、清水浩平、高橋忠輔、並木喬平の名前も含まれている。小平村は、このときまで吉野と行動をともにしていたことがわかる。しかし、国民自由党は小勢力にとどまり、影響力をもつことはできなかった。二月一〇日付で吉野は就任していた常置委員、評議員を辞職、政治活動から離れていく。正義派であった県会議員も五月(比留間雄亮)、六月(中村半左衛門)、八月(村野七次郎)と相次いで議員を辞職した。正義派に結集した勢力の政治活動は一時、表面から消えてしまうのである。

図2-17 「地租軽減の請願書」署名者町村別数
(出典)三鷹市吉野泰平家文書O2-8より作成。

 この間、小平村では実業に力を入れる人物が増えていた。三月には並木が、四月には小野が大日本農会に加盟する。小野が加盟した四月には、大日本農会北多摩支会が結成された。さらに九月、小野は吉野に宛てた書簡のなかで、「暫らく実業に身を寄せ静養致すべき考に御座候、小生の起業は今漸く創業に掛り居る所なり」(近現代編史料集⑤ No.四一)とあらたな「起業」について宣言する。一方、高橋忠輔は四月に東京簿記専門教習所に入学した(近現代編史料集⑤ No.三九)。正義派の壮士であった彼等は、正義派の活動停止により、新たな身の振り方を考えなければならない状態となっていた。吉野も、小野らとともに壮士の中心として奔走していた松村弁治郎が「実業に趣くの様子」がないことを心配し、国友如淡に「実業に帰向候様意見下され度」(「国友如淡宛吉野泰三書簡」)と説得を頼んでいる。壮士らは正義派解散後、実業へ、学びへと、新たな道を歩みはじめたのである。