一八九〇(明治二三)年一一月に招集された第一帝国議会は民党が多数を占めたが、山県有朋内閣による自由党土佐派の抱き込みにより予算案は成立した。しかし、翌一八九一年一一月二一日招集の第二帝国議会では民党の結束は固く、民党との全面対決を避けることはできなかった。松方正義首相は一二月二五日に議会を解散、選挙干渉による状況打開を試みた。この解散前後より、三多摩でも総選挙に向けた動きが開始される。吉野のもとには政府系候補として立つことを求める要請が届いた。吉野は同志を使って政治勢力の調査をおこなった。その際、まとめられたと思われるものに「町村長及助役名簿」がある。ここでは各町村長、助役の「主義」「性質」「資産」などがまとまられている。それによると、小平村長の宮寺熊右衛門(くまえもん)は、主義は「自由」で性格は「穏和」、助役の野中善平は、主義は「正義派」で性格は「活溌」であった。村長の宮寺は、正義派結成時には助役の野中とともに正義派の名簿に名を連ねていた。正義派解散後に小平村にも自由党の影響が入り、「穏和」な宮寺は自由党に傾いていたのであろう。このような状況の中で、吉野は「反対者中に変動者の起るを待て」「味方の運動を一と先(まず)中止」(「杉田桃助宛吉野書簡」)した。
図2-18 「町村長及助役名簿」 1891年11月
三鷹市吉野泰平家文書
二月になると、八王子町長の平林定兵衛の立候補の動きが生まれてきた。正義派解散の際に吉野が期待した、南西多摩郡への広がりがみえてきたのである。吉野は平林らと連携し、比留間ら改進派ともあらためて連絡を取り、選挙戦に臨むことにした。投票日は二月一五日であったので、実際の選挙戦は短く、吉野、平林は自由党現職代議士の石坂、瀬戸岡に勝利することはできなかった。しかし、吉野の活動はこれ以降、活発となっていく。二月二七日、府中町において落選慰労会が開かれたが、その場で吉野は「小生はこれより勉めて南西郡の巣窟を掃除せんとす」「南郡西郡に大いに新同志を得たり、此際に乗し着々歩を進めんとす」(「菊池小兵衛宛吉野書簡」)と宣言した。吉野の活動再開とともに、小平村も活動を活発化させたようである。吉野宛内野杢左衛門書簡(二月一〇日)によると、町田久五郎は選挙戦のために中藤組合村(現武蔵村山市)へ出向くなど積極的に動いている。そして、小平村は選挙後には、また中心的役割を果たすようになっていく。