神奈川県実業者相談会と正義青年会

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落選慰労会には一八〇名ほどが出席した。南多摩郡からの出席者も多かったという。この会は単なる慰労にとどまらない、その後の活動の方針を決める重要な会議となった。ここで決定されたのは「実業団体」と「青年義団」の結成である。前者は「老年の士」を組織し、後者は「壮士を残らずこれに編入」(「鎌田訥郎宛金子惣八書簡」)しようとしたものであったというが、この二つの組織の結成は、正義派解散後に生まれていた、実業へ、学びへと向かっていた壮士らを再組織し、正義派が目指していた実業者を基盤とする政治勢力を再構築しようという動きであったといってよいであろう。
 「実業団体」は「神奈川県実業者相談会」として結成された。まず確認しておきたいのは、「北多摩郡」を冠した正義派とは異なり、「神奈川県」を冠した組織であったことである。第一回総選挙で北多摩郡正義派に限界を感じた吉野は、郡を超えた組織の結成を考えたのである。実際の会員は北多摩郡が中心ではあったが、南多摩郡でも稲城村の二八名を筆頭に、八王子町七名、浅川村(現八王子市)五名など計四八名が会員となった。そこには選挙戦をともに戦った平林定兵衛や、困民党指導者として知られている須長漣造(すながれんぞう)もいた。しかし、注意したいのは、北多摩郡に会員のいない空白地区があったことである。自由党が強かった中藤組合村(現武蔵村山市)、谷保村(現国立市)などのほかに、「改良進歩」の活動で中心的役割を果たしていた東村山村、砂川村(現立川市)にも会員はいなかった。あとで詳しく触れるが、この時期すでに北多摩郡には、実業者の団体である大日本農会北多摩支会が設立されていた。その幹事には東村山村の市川幸吉、砂川村の砂川憲三が就任している。ほかに富沢松之助(神代村、現調布市)、竹内太左衛門(府中町)、そして比留間雄亮(府中町)も幹事であった。比留間は総選挙では吉野に協力したが、実業者相談会の会員にはなっていない。砂川、比留間らは改進派である。つまり、吉野らは改進派の影響が強かった大日本農会北多摩支会にかぶさるかたちで実業者相談会を組織しようとしたが、その地盤には食い込むことができなかったのである。結局、神奈川県実業者相談会は吉野の地盤を中心に会員を広げることになった。小平村もその一つで、会員数は多磨村(現府中市)、三鷹村、国分寺村、府中町に次ぐ一七名であった。なお、吉野家には会則の検討経緯がわかる三種類の「会則」が残されている。そこから、はじめは「実業者を代表すべき代議士を撰出せんことを期する」としていた目的を、「国利民福を謀るを期する」と変更したことがわかる(「神奈川県実業者相談会々則」)。政治性を前面に出すと実業者の組織化が困難であると考え、抽象的な表現に変えたと思われる。しかし、それでは大日本農会北多摩支会との差別化がはかれない。その結果、実際の活動はほとんどすることができなかったのではないか。実業者相談会の結成後の活動がわかる史料はみいだせない。

図2-19 神奈川県実業者相談会の町村別会員数

 もう一つの「青年義団」は「正義青年会」として結成された。結成式は三月七日、小平村喜平橋においておこなわれ、本部は小川の字窪に置かれた。正義青年会は、吉野派壮士の中心で、北多摩郡倶楽部が設置されたことのある小平村に拠点を置いたのである。小平村は会員数も六九名と多く、次に多い小金井村の二一名を大きく引き離していた。正義青年会の会則は、目的を「会員相互に交通信愛して青年の智徳を上進せしむる」(「正義青年会々則」)こととしている。そして、その目的を実現するために毎月第一日曜日に、適宜の地にて集会を開くとしたが、具体的な活動内容については記していない。しかし、「鎌田訥郎宛金子惣八書簡」には「東京より撃剣家を聘雇し専ら武を講し、着々第三期競争の準備」していると書かれている。正義青年会は壮士の拠点として、政治性の強い組織として結成されたのである。吉野家には幹事会招集を求める一〇月二五日付「正義青年会」発の葉書が残されている。次に述べるように、この時期、吉野らは国民協会へ入会していた。実業者相談会とは異なり、政治性が強かった正義青年会は、吉野の政治活動に付随して活動を活発化させていたのではないだろうか。ちなみに、この時の幹事会の会場も「小平村喜平橋」(橋本屋)であった。小平村は、一度は学びへ、実業へと向かう傾向を強めたのであるが、再び政治的活動を活発化させるようになったのである。

図2-20 正義青年会の町村別会員数