八月一三日、吉野ほか四〇名が入会に踏み切った。そして、同月二七日には「神奈川県下の有志三百五十七名」が入会した(『中央新聞』)。まとまった会員名簿がないため、小平村からの入会者の全容はつかめないが、残された一部の名簿から、当時村長であった高橋恭寿と助役であった野中善平が会員となっていたことがわかる。おそらく、小平村は国民協会へ、こぞって入会したものと思われる。
この頃、神奈川県会では選挙干渉の責任追及の声が高まり、一二月一二日には県知事と警察部長の転任を求める建議が可決された。先にみたように、内海県知事はすでにこの時期、三多摩の神奈川県からの追放を考えており、このときも県会解散という強硬手段に打って出る。解散を受けた県議選は翌一八九三年二月一日におこなわれた。この選挙で国民協会と改進派は、連合を組んで戦った。正義派結成の時と同様の連合である。その結果、北多摩郡では四議席すべてを獲得することができた(国民協会三議席、改進派一議席)。このような選挙戦勝利の政治的高揚期に帝国議会に突如提出されたのが、三多摩の東京府への移管法案であった。帝国議会の対立は、国民協会・改進党対自由党であったことはすでに触れたが、この対立は神奈川県議選での対立がそのまま反映したものであったのである。東京府知事、神奈川県知事、政府側の移管への動きと、国民協会・改進党側の活動との間に接点があったかどうかは明確でないが、県議選勝利の勢いがそのまま、移管法案賛成運動へとつながっていったということはできよう。
三多摩の移管の実現で、国民協会はさらに勢いを増すはずであった。しかし、五月一日におこなわれた移管後初の府会議員選挙では、北多摩郡五名の定員の内、国民協会・改進党の連合は吉野一名しか当選させることができなかった。それは、移管決定後の自由党の猛烈な巻き返しが一つの要因であったが、もう一つの要因として、国民協会自体の衰退をあげなければならない。国民協会の看板は、「積極主義」と唯一与党性にあった。しかし、一八九二年七月三〇日に、つながりの強かった松方首相が辞任、また同日、自由党が「自由党政務調査之方針」を出して「積極主義」への転換を表明したことによって、国民協会の看板の独自性が消えてしまったのである。七月三〇日というのは、吉野らが国民協会入会に踏み切ろうとした直前のことである。結局、吉野らは入会に踏み切り、県議選、移管実現と、表面的には勢いを増していったのであるが、内実は入会者のなかで支持の気持ちは弱まっていたのではないかと考えられる。入会直前の八月四日付吉野宛平林定兵衛書簡には、「国民協会に対する意見は至極賛成の向」であるが、「少しく冷淡に向ひたる様子」もあると書かれている。移管がおこなわれた一八九三年四月になると、早くも退会者が出てきた。八日、吉野のもとに退会者の照会を求める国民協会からの書簡が届く。この時の退会者は四名であるが、そのうちの一人が小平村の野中善平であった。
図2-21 退会者の照会を求める吉野泰三宛国民協会書簡 1893年4月
三鷹市吉野泰平家文書
国民協会は、その後、「対外硬」の問題を取り上げ、反政府性を強めていく。このことは「積極主義」と唯一与党性に期待して国民協会を支持していた有権者を、さらに失うことになった。一八九四年三月一日におこなわれた総選挙で国民協会は惨敗した。吉野もこのときは一一一票しか取ることができなかった。そして、一八九六年七月二三日に吉野が死去したことで、国民協会は北多摩郡における勢力低下を決定的なものにしてしまう。それから二か月半後の一〇月五日、自由党の中村克昌は鎌田訥郎への書簡(「多摩地方の景況に関する中村克昌の鎌田訥郎宛て書簡」)のなかで「小平の景況に付、此上充分御配慮を乞ふ、町田氏是非我党賛成希望の至りに候、もし同氏賛成すれば貴兄より直ちに費用は御渡し下され度」と書いた。小平村の壮士の中心的存在であった町田久五郎が、吉野の死去を契機に自由党へと接近をはじめたのである。