大日本農会北多摩支会の結成

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北多摩郡正義派が解散した一八九〇(明治二三)年八月、大日本農会幹事池田謙蔵は、北多摩郡有志に系統的品評会開設の提案をおこなった(近現代編史料集⑤ No.五二)。これは府県に大農区を、郡に中農区を、町村に小農区を設置して、品評会を小農区から中農区へ、中農区から大農区へと積み上げていくものである。北多摩郡ではこれに賛成する者が多く、大日本農会に加入する者が「百五十余名」の多くにおよんだという(『大日本農会報告』一二四号)。図2-22は、系統的品評会開設提案後の九月から、大日本農会北多摩支会が設立されて、その支会名簿が作成された翌一八九一年八月までの大日本農会入会者の町村別数を示したものである。この時期の入会者数で一番多いのは小平村であり、小平村がこの時期に大日本農会へと急速に傾斜を強めたことがわかる。正義派の解散で、北多摩郡では人びとの関心が政治から経済へと大きく変化しようとしていた。ちょうどそのときに、池田による系統的品評会の開設という「改良進歩」の具体的提案がなされ、大日本農会が一気に勢いを増すことになったのである。ただ注意しておきたいのは、小平村での入会の急増は、先に触れたように、吉野が国民自由党の常置委員・評議員を辞任して政治的活動から退いた一八九一年二月以降のことで、それは実際に品評会がおこなわれたのちだったことである。品評会の推進においては、小平村は主導権を握ってはいなかった。

図2-22 系統的品評会開設提案後(1890年9月)から北多摩支会名簿作成時(1891年8月)までの大日本農会入会者の町村別数

 池田の提案を受けて、実際に品評会の実施へと動いたのは、北多摩郡農工講話会幹事長の川崎平右衛門であった。彼は農工講話会の会則にもとづいて「北多摩郡農工物産品評会々則」を制定した。そして、事務長に安達安民北多摩郡長、審査長に大日本農会幹事桶田魯一をすえ、みずからは委員長に就き、一〇月一日から一〇日までの間、品評会を開催した。すなわち、大日本農会と郡役所が一体となって組織した農工講話会の活動の一つとして、最初の品評会はおこなわれたのである。この品評会は、町村委員が町村の出品物の取りまとめをしているが、小農区の品評会はおこなわれておらず、池田のいう系統的品評会とはいえないものであった(『東村山市史』2)。しかし、地域において好評を得たようで、この成功が弾みとなって大日本農会北多摩支会の設立へと向かったのである。
 北多摩支会は一八九一年四月一一日に定式会を開いて役員選挙をおこなった。幹事長には農工講話会の幹事長であった川崎平右衛門が就任した。おそらく、農工講話会は、その活動を北多摩支会に引き継いだものと思われる。そして、すでに触れたが、幹事には富沢松之助、市川幸吉、砂川憲三、竹内太左衛門、比留間雄亮の五名が選出された。比留間、砂川は改進派であり、北多摩支会には改進派が積極的に参加し、主導権を握ろうとしていたことがわかる。改進派は正義派解散後、実業重視の姿勢を強め、大日本農会を活動の主要な場としたのである。支会の発会式は同月一九日に挙行され、およそ数十人が参集した。発会式では、系統的品評会を提案した池田謙蔵が「農区の必要」、特別会員酒井為一郎が「農家団結力」、農務局蚕業試験場員轟木長が「養蚕の注意」を演述した。そして、引き続いて開かれた有志懇親会で、市川幸吉が「農産品評会の必要」を、砂川憲三が「稲作肥料過燐酸石灰の必要」を訴えた(『大日本農会報告』一一八号)。
 北多摩支会の会則は、会の目的を「汎く農事上の経験知識を交換し、専ら農事業の改良進歩を図」ることとしている。この点は農工講話会とほとんど変わらないが、一歩進んで「試験場」を設けることをあげており、この点が農工講話会との違いの一つである。この試験場の役割は「学理をして実地応用を計り其結果を公衆に示」すこと、「種子の将来利益たるへき」ものがあれば会員に配布することであった。単なる経験知識の交換にとどまらず、試験場による農事改良の指導と有益な種子の配布、というあらたな方向性を示したのである。さらに、各町村農区でも「漸次試作場を設置する」ことを求めた。そして、池田の提案した系統的品評会の開催も会則に加え、各町村農区の「農産品評会」と、その優等品を集めた「支会品評会」の開設を規定した(「大日本農会北多摩支会規則」)。