図2-23 第1回繭品評会番付表 1891年
東村山ふるさと歴史館寄託市川家文書
品評会は毎年三月、九月の二回おこなわれることになっていた。春の出品物は米、陸米、雑穀、豆類で、秋の出品物は大麦、小麦、繭、製茶であった。この規定によると、第二回品評会は一八九二年三月におこなわれたはずであるが、『大日本農会報告』には報告されておらず詳細は不明である。第三回の品評会は規定どおり、一八九二年九月からはじまった。小農区での品評会の記事がないので、各村での品評会の開催状況については不明であるが、九月三〇日から出品の支会への受け入れがはじまり、一〇月三日から七日まで審査がなされ、八日から三日間、陳列がおこなわれている。三日間に訪れた来観人数は、「平均一日およそ四百人計」におよんだという。出品数は大麦一一三点、小麦九八点、繭一四七点、生糸二七点、製茶七六点の計四六一点であった。審査長には第一回と同じく池田謙蔵が就任し、審査委員には繭生糸が八名、製茶が四名、大麦小麦が四名就いた。注意しておきたいのは、繭生糸審査委員に小平村の小川良助が就任していることである。小川についてはあとで触れる。審査の結果、九四点が褒賞を授与されることになった(『大日本農会報』一三四号)。
第四回の支会品評会は、一八九三年二月一〇日から三日間開かれた。出品は米一七三点、大豆九八点、小豆七四点、粟四七点、藍玉三六点の計四二八点であった。前回までと異なるのは、審査委員長に支会幹事長の川崎平右衛門が就任したことである(『大日本農会報』一三八号)。北多摩支会が本部から自立して動きはじめたことを示していよう。その後も、北多摩支会は活動を充実させていったようである。一八九五年三月には、「会務の拡張を謀らんか為」寄付金を募集した。この寄付金で「軍事公債を購入して当会の基本財産とし、年々其利子を以て奨励費に充てん」とする計画であった。寄付金は市川幸吉、砂川憲三らの特別会員の九名が五円ずつで一番多く、次に多い三円を出したのが、通常委員であった小川良助であった(『大日本農会報』一六二号、一六四号)。
図2-24 大日本農会報164号 1895年
一橋大学附属図書館所蔵
基本財産をもった北多摩支会は、この年の一〇月一三日「大日本農会北多摩支会兼北多摩郡農事大会」を開催した。この大会は「町村長を始め有志者の参集多く、会場は立錐の余地なき状況」で、「遠隔の地よりは実業に熱心なる婦人十余名も参会」したという。大会では三つの問題が提出され、決議がなされた。第一は、「地方官に実業奨励の急務なることと農家の状態」を知らしめるために建議をすること、第二は、農事巡回教師、試作場の役割を一般農民に知らせ、学理応用の成果をあげるため、町村農会、郡農会、府農会を法にもとづいて組織するよう地方庁へ具申すること、第三は、翌年九月開催の「物産品評会」に地方庁の補助を求めることである(『大日本農会報』一七〇号)。大日本農会は有志の組織であった。大日本農会に結集した実業者たちは、県や郡の指導・援助を求め、法にもとづく農会の設置を考えるようになっていたのである。