系統的品評会の開催

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池田の提案による系統的品評会が試みられたのは、支会結成後の品評会からであった。一八九一(明治二四)年九月二日、支会において小農区委員の会合が開かれた。そこでは、二〇日までに各小農区で品評会を開いて、その優等品二六品ずつを二一日から二五日までに支会に送り、支会において二七日から三一日までの間に品評をおこなったのちに、一〇月一日から三日間陳列するとともに、その優劣を相撲番付のかたちにして公示することを決めた。しかし、実際に小農区で品評会がおこなわれたのは東村山村、大神組合村(現昭島市)、田無町、砂川村、中藤組合村(現武蔵村山市)だけで、他の村では直接支会の品評会に出品した(『東村山市史』2)。まだ、この時期には村単位の小農区は、市川幸吉や砂川憲三のいる東村山村、砂川村などの一部の村にしか浸透していなかったのである。品評会に出品されたのは、大麦二一八点、小麦二三一点、繭一二一点、製茶五六点の計六二六点であった。審査長には系統的品評会提案者の池田謙蔵が就任し、審査員には市川幸吉ら一六名が就いた。そのなかには小平村の飯田宇一もいた。飯田は一八八八(明治二一)年一二月に、農商務局からの依頼にもとづいておこなわれた蚕糸業組合にかんする諮問会に参加した一人であった(本章第一節3)。品評の結果、「優等」となったのは、繭二八点、製茶一六点、大麦三六点、小麦三六点の計一一六点で、そのうち、繭、製茶は大日本農会第二六回農産品評会に、大麦・小麦は第二七回の農産品評会に出品されることになった(『大日本農会報告』一二四号)。

図2-23 第1回繭品評会番付表 1891年
東村山ふるさと歴史館寄託市川家文書

 品評会は毎年三月、九月の二回おこなわれることになっていた。春の出品物は米、陸米、雑穀、豆類で、秋の出品物は大麦、小麦、繭、製茶であった。この規定によると、第二回品評会は一八九二年三月におこなわれたはずであるが、『大日本農会報告』には報告されておらず詳細は不明である。第三回の品評会は規定どおり、一八九二年九月からはじまった。小農区での品評会の記事がないので、各村での品評会の開催状況については不明であるが、九月三〇日から出品の支会への受け入れがはじまり、一〇月三日から七日まで審査がなされ、八日から三日間、陳列がおこなわれている。三日間に訪れた来観人数は、「平均一日およそ四百人計」におよんだという。出品数は大麦一一三点、小麦九八点、繭一四七点、生糸二七点、製茶七六点の計四六一点であった。審査長には第一回と同じく池田謙蔵が就任し、審査委員には繭生糸が八名、製茶が四名、大麦小麦が四名就いた。注意しておきたいのは、繭生糸審査委員に小平村の小川良助が就任していることである。小川についてはあとで触れる。審査の結果、九四点が褒賞を授与されることになった(『大日本農会報』一三四号)。
 第四回の支会品評会は、一八九三年二月一〇日から三日間開かれた。出品は米一七三点、大豆九八点、小豆七四点、粟四七点、藍玉三六点の計四二八点であった。前回までと異なるのは、審査委員長に支会幹事長の川崎平右衛門が就任したことである(『大日本農会報』一三八号)。北多摩支会が本部から自立して動きはじめたことを示していよう。その後も、北多摩支会は活動を充実させていったようである。一八九五年三月には、「会務の拡張を謀らんか為」寄付金を募集した。この寄付金で「軍事公債を購入して当会の基本財産とし、年々其利子を以て奨励費に充てん」とする計画であった。寄付金は市川幸吉、砂川憲三らの特別会員の九名が五円ずつで一番多く、次に多い三円を出したのが、通常委員であった小川良助であった(『大日本農会報』一六二号、一六四号)。

図2-24 大日本農会報164号 1895年
一橋大学附属図書館所蔵

 基本財産をもった北多摩支会は、この年の一〇月一三日「大日本農会北多摩支会兼北多摩郡農事大会」を開催した。この大会は「町村長を始め有志者の参集多く、会場は立錐の余地なき状況」で、「遠隔の地よりは実業に熱心なる婦人十余名も参会」したという。大会では三つの問題が提出され、決議がなされた。第一は、「地方官に実業奨励の急務なることと農家の状態」を知らしめるために建議をすること、第二は、農事巡回教師、試作場の役割を一般農民に知らせ、学理応用の成果をあげるため、町村農会、郡農会、府農会を法にもとづいて組織するよう地方庁へ具申すること、第三は、翌年九月開催の「物産品評会」に地方庁の補助を求めることである(『大日本農会報』一七〇号)。大日本農会は有志の組織であった。大日本農会に結集した実業者たちは、県や郡の指導・援助を求め、法にもとづく農会の設置を考えるようになっていたのである。