茶業の衰退と養蚕・蚕種業の拡大

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本章第一節3で、一八八五(明治一八)年から一八八九年までの茶業組合、蚕糸業組合をめぐって生じた対立、紛擾についてみてきた。実はちょうどその頃、茶業は大きな転換点に立たされていた。一八八三年のアメリカの「贋茶禁止条例」の制定で若干停滞はしつつも伸びていた製茶輸出量が頭打ちになり、ほぼ横ばいに推移する時期に入ったからである。アメリカ市場の茶価も一八八七年七月を頂点に下落しはじめ、明治一〇年代に設立されていた直輸出を目指す会社は厳しい状態になっていた。茶は将来拡大が期待できる魅力ある作物ではなくなってきたのである。
 すでに触れたが、小平村で多くの茶業関係史料が残されている斉藤家の史料は、一八八六年五月の北多摩郡茶業組合委員の「当撰状」で途絶えている。滝島家でも一八九〇年五月の「茶業組合員之票」以降は、一九〇〇年の「秋茶売渡約定」まで茶関係の史料は残されていない。小平村に製茶業を広げてきた當麻家の史料は、一八八五年の「共進会出品申告書」が最後である。これらのことは、茶業組合をめぐる紛擾と茶輸出の停滞が、小平村の茶業者に将来への展望を見失わせ、茶業離れを引き起こしていったことを示しているのではないだろうか。東村山村の市川幸吉は、茶業組合中央会の諸会議に出席し、一八九二年二月には建議を提出するなど、茶業復活の活動を積極的におこなっていた(「建議」)。翌一八九三年二月二二日には、三多摩移管問題で三多摩全体が大騒動となっていたさなか、砂川源五右衛門・憲三宅に前田正名を招き、「三百余名」を集めて茶業談話会を開催している(『大日本農会報告』一三八号)。しかし、これらの努力は実を結ばなかったようである。『北多摩郡誌』には、「粗製乱造の弊害を生し、且漸次輸出額低落の悲境に陥り、他の農産に比し収利の薄きを以て、明治二十六七年頃には茶樹園を廃し、桑園となすもの漸く多きを加へ」たと書かれている。小平村を含む北多摩郡全体で、ちょうど東京府への移管がおこなわれた頃に、茶樹園から桑園へという転換が起こったのである。
 斉藤忠輔が茶業から蚕糸業へと重心を移していたことについてはすでに触れたが、小平村が蚕糸業へと転換していく際に大きな役割を果たしたのが小川良助であった。彼は一八八一年より一八八六年まで榎本貞義塾で漢学を修めたのち、一八九〇年に「農商務省西ヶ原蚕業試験場に入り、蚕業を修得」した(「村葬関係書類」)。そして、一八九二年、「中武豊蚕社」を設立し、社長に就任した。その開業式は一月一七日、小川の妙法寺にておこなわれたが、そこには奥村精一北多摩郡長のほか、川崎平右衛門、市川幸吉らが参加している。市川は祝辞のなかで「我国物産にして海外輸出の最大首品なるものは蚕糸に若くはなし、本郡内に於けるも蚕業の漸次隆盛に赴くと雖とも、猶未た尽くさゝるものあり」と述べた後、「諸君か養蚕術を研究して、弥興産の基礎を固定し、利を貿易市場に競へ、必す国家の富強を図られんこと」を期待すると述べた。そして、起業式後には、西ヶ原蚕業試験場の練木技師が「養蚕豊作丸」と題した演述をおこなった(「市川幸吉勧業日誌」)。小平村を含む「中武」(中武蔵)に影響を広めようという、農商務省の試験場の影響下にある民間の養蚕技術の研究・指導機関が生まれたのである。豊蚕社の活動実態を示す史料は見い出せていないが、この年の一〇月におこなわれた第三回品評会の繭生糸審査委員に小川が選ばれたところをみると、地域において一定の評価を受ける存在となっていたのであろう。『田無市史』によると、小川は一八九六年三月二五日に「養蚕改良精蚕社」を設立している。これは小川を設立代表者、近隣の養蚕関係者五人を発起人として設立したもので、小平村、小金井村、田無町、西府村(現府中市)、大神組合村、三鷹村、砂川村、国分寺村、中藤組合村、府中町、保谷村(現国立市)の一一町村の三〇名を賛助員とした。「中武豊蚕社」との関係を示す史料はないが、賛助員の存在、また、一村内二五名基準で一組を組織したという点から考えると、地域との関係をより強化したかたちで「中武豊蚕社」を改組したものであったと考えられる。精蚕社では入会者の要請に応じて教授員を派遣するとともに、「伝習所」を設置して年一〇人に養蚕技術の伝習をおこなった。

図2-25 小川良助肖像画


図2-26 豊蚕社誕生祝辞 1892年

 精蚕社が設立される一年前には、大日本農会北多摩支会において蚕種検査規則が制定された。その規則には「蚕種製造の有志」を団結させて支会で検査をおこない、合格の蚕種には証票を付すことが規定されている(『大日本農会報』一六三号、一八九五年四月)。そして、『大日本農会報』一六五号(六月)には、「謹で全国蚕業家諸彦に告く」という、「大日本農会北多摩支会事務所」「蚕卵種業多摩組合事務所」連名の蚕種販売の広告が掲載された。広告では、北多摩郡は「土質地位風土大に蚕種に適し」た地であるとし、「熟練製造業者を団結」させて「検査規則を制定」して「確実に検査」した蚕種であるとして売り出した。北多摩郡を単なる養蚕地でなく、蚕種地として発展させようとしたのである。しかし、広告に掲載された「蚕種製造同盟者」五〇名のなかには小平村の人名も、東村山村の人名も見あたらない。一番多いのは大神組合村の一六名、次は立川村の七名である。蚕卵種業多摩組合事務所の住所も大神村である。蚕種においては大神組合村が主導権を握っていた。
 しかしながら、小平村が蚕種業に取り組んでいなかったわけではない。『小平町誌』には、小平村の蚕種業は一八九二年に小野弥十郎が先鞭をつけたと書かれている。中武豊蚕社が小平村に設立されたのと同じ年である。屋号は「根古坂」で、『東京都蚕糸業史』によれば、「蚕種製造業実業社」という社名であった。おそらく、小平村は蚕種においては後発であったため、蚕卵種業多摩組合が設立されたときには、そこに参加できるまでには至っていなかったのであろう。その後、小平村では蚕種業者が増加し、一九一〇年代には、小川新田に蚕種屋が軒並み続くようになっていたという(『田無市史』)。一九一七(大正六)年には、新聞に「府下唯一の蚕種製造地として知られている北多摩郡小平村」(『東京朝日新聞』府下特報一一月二〇日)と書かれるほどになっていた。同記事によると、春蚕種の製造高が二万三九四四枚、秋蚕種が普通種一四七枚、特別種三万二八七六枚である。小平村では明治後半から大正時代にかけて、茶業から養蚕・蚕種業へと大きな変化が起こっていたのである。