日清戦争と台湾の植民地化

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一八九四(明治二七)年七月、朝鮮をめぐる日清両国の利害対立から日清戦争がはじまった。当時の国家予算の約二年分の歳入にあたる二億円余りの戦費と約一〇万人の兵力を動員した戦争は、およそ八か月で日本の勝利に終わった。日本軍の戦死者は約一万七千人で、うち約七割が病死であった。
 小平村の正確な出征者・戦死者数は定かではないが、『小平市三〇年史』によれば、出征者二四人、戦死者三人となっている。このうち、一八七一年生まれの竹内宇八(小川一番)は、歩兵第一連隊第九中隊に入隊・出征している。「竹内宇八之碑」の碑文によると、一八九五年一月、清国兵の放った銃弾を浴び二四歳で戦死した。小平村にとって対外戦争におけるはじめての戦死者と思われる。遺骨は村に送られ、葬儀には郡長、村会議員、警察署長、各町村長が出席し、一千人余りの参列者があったという。また、日清戦争の開始にあたっては、小平村有志(総代・小川弥次郎)が軍費として一〇〇円を東京府に献納している(「(明治二十七八年戦役軍資金献納ニ付木杯下賜状)」)。こうした事実からは、戦争を支える地域の人たちの姿と同時に、村民の「戦死」というかたちで戦争が地域に暗い影を落としはじめたようすが浮かび上がってくる。
 戦争後に結ばれた下関条約(一八九五年四月)によって、清国は日本に対して、朝鮮の独立承認、台湾・澎湖諸島・遼東半島の割譲、賠償金二億両(テール)(日本円で約三億一千万円)などを約束した。このあと、いわゆる「三国干渉」によって遼東半島は返還したものの、日本は台湾を領有したことで、新設された総督府のもと植民地支配がはじまったのである。