出征兵士と留守家族

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日清戦争後、台湾では日本支配に反発する台湾住民による抗日武装蜂起が起こった。これに対して日本軍は大々的な掃討戦を展開する。野戦第一連隊補充員として日清戦争に出征した神山力太郎(小川一番)は、一八九六(明治二九)年一一月、台湾守備隊臨時補充員として台湾北部の港湾都市・基隆(きりゅう)に赴任した。当時、台湾常駐の軍事力は混成旅団三個で、兵員は内地各師団からの交替派遣だったためである。のちに日露戦争にも出征した力太郎は、書簡をつうじて小平村の家族や親類・友人・知己と頻繁に連絡を取り合っていた。現在、神山家には、日清戦後から日露戦争の時期にかけて交わされたおよそ一五〇通におよぶ書簡が残されている。書簡は力太郎が戦地から郷里に宛てて送ったものだけでなく、郷里から戦地の力太郎に届けられた書簡も現存している。以下、両者の書簡をもとに出征兵士と小平村の人たちとの関係に迫ってみたい。

図2-27 神山家に残された軍事郵便
小平市神山和平氏所蔵

 台湾の力太郎は、小平村の父・勝三郎に宛て近況を報告している。書簡には、「先日基隆町に於て芝居且つ角力の換〔興〕行」があったので、私も「見物に参り木戸銭は壱人前三拾銭、我々は半格〔ママ〕」だったが、「父上様も新聞紙上にて御存じ之通り熱国なる故九拾度以上之処なる故愉快と雖(いえど)も大(おおい)に困難に之あり」(一八九七年六月七日付)とある(近現代編史料集⑤ No.六〇)。市街見物に出かけたことや、日本とは異なる台湾の気候風土に対する驚きが率直に綴られている。「大に困難」という言葉からは、不慣れな気候風土への対応に戸惑うようすがよく伝わってくる。そして末尾で、私も「向(むこう)百と四拾日経過致せば満期に」なるので、「帰国の節委(くわ)しき事は御咄(おはなし)し申述候」と述べている。「満期」(帰国・除隊)の日を心待ちに過ごす兵士のようすを読み取ることができる。
 父・勝三郎に宛てた別の書簡では、「陳者(のぶれば)小生儀一月以来台湾流行のマラリヤ病に六度罹(かか)り又七度目に三月廿九日より罹り今者(いまは)日日床中に内地の栗虫の如くころころ罷在(まかりあり)少しは困難に御座候」(四月二日付)というように、力太郎はマラリアなどの疾病に悩まされていた。書簡にはさらに「就而者(ついては)小生マラリヤの為に金円使はたし只今は一文の銭も」なく苦労しているので、「此書面届き次第金拾円程御送り下され」と綴られており、力太郎が恐縮しつつも自宅に送金を依頼していることがわかる。留守家族への送金依頼は、軍隊の給与が低額だったこともあり、多くの兵士が一般的におこなっていたといわれる。力太郎の依頼に対して勝三郎は、小平郵便局から為替で一〇円を送金している。
 小平村からは神山力太郎のほかにも同様の任務で台湾にやってきた兵士がいた。歩兵第一連隊から台湾守備隊に編入された前村寅吉(小川新田字山家)である。寅吉の父・文次郎が力太郎に宛てた書簡(一八九七年二月二四日付)では、「御貴君様宜敷(よろしく)御注意□〔欠損〕度様御願申上候。病気其他之と臨時戦死等の儀」があった場合は、「其趣□〔欠損〕処御報(おしらせ)相成度」とあるように、子息の世話に加えて、罹病・戦死など緊急の際の連絡を依頼している。不安を抱える留守家族にとって同郷の出征兵士の存在は、子息の安否を含めた戦地のようすを知るうえで重要な意味をもっていたことがわかる。