一八九七(明治三〇)年七月以降、力太郎の部隊は三度にわたって「土匪(どひ)討伐」に出張している。「土匪」とは、当時、日本側が台湾の抗日武装勢力を指して用いた言葉である。力太郎が父・勝三郎に宛てて書簡をしたためたのは、最初の「討伐」がおこなわれた直後のことであった。力太郎はまず、家族の無事に安堵したあと、七日午前三時より「土匪討伐之目的を以て金包里ふ(ママ)近へ出発」、一〇日に「帰営」すると直ぐに「マラリヤ病に罹り日々赤へ〔ママ〕毛布の中で栗虫の如くごろごろ」しているので「一寸御報せ申上候」というように、「土匪討伐」の実施とマラリヤへの罹患を伝えている。そして力太郎は書簡の末尾で、「繭数且繭の相場等」を知らせて欲しい旨を綴っている。力太郎は農家の長男である。病床にありながらも、郷里の養蚕の動向を気にかけているのは、経営に関与する農家の長男としての強い意識のあらわれと考えられる(近現代編史料集⑤ No.六〇)。
力太郎は郷里の友人・知己に対しても、「土匪討伐」、マラリヤへの罹患など近況を伝えていた。そのことは、七月三一日付の金子音二郎の返書からも読み取れる。書簡のなかで金子は、「此頃中は土匪討伐にて非常に御困却」とのこと、「御心労の段小弟一個人として又国家人民の代表者として謹て」「感謝」している旨を述べている。「尚末筆に依れば昨今マラリヤ病に襲はれ兵舎に臥床(がしょう)」しているとのことだが、「書面の文句の有様にては無論大病」ではないと推察する。「併(しか)し御養生専一に」と力太郎に注意を促している。「国家人民の代表者」として「感謝」を述べる金子の書簡からは、台湾での戦闘が郷里の人たちにとって大きな関心事になっていたことがうかがえる。また、東京に出ていた友人・山口廣徳の書簡には、「愛兄は此大暑焼くが如きの時節をも厭はず謹て将校の命を奉じ、土匪討伐として基隆を距(へだて)ること西北六、七里〓渓頭附近まで進撃し」(八月七日付)とある。同じ日の書簡では、捕虜の殺害についてふれている。台湾総督府民政長官・後藤新平によれば、一八九六年から一九〇二年までの「匪徒殺戮数」は、「捕縛もしくは護送の際抵抗せしため」五六七三人、「判決による死刑」二九九九人、「討伐隊の手に依るもの」三二七九人、合計一万一九五一人であった。力太郎の部隊もまたほかの多くの部隊・兵士と同様に、台湾での掃討戦にかかわっており、そのことは小平村の人たちにも伝えられていたことがわかる。
戦地の出征兵士と小平村の人たちは書簡のやり取りをつうじて深く結びついていた。台湾に向かった兵士は、郷里からみれば「国家人民の代表者」であり、当時の小平村の人たちにとって台湾での出来事は決して無関係なものではなかった。日清戦争にはじまる対外戦争とそれに引き続く台湾での戦闘は、書簡の送付による相互の交流、葬儀など戦争にかかわる村の行事、軍費の献納、記念碑の建立をつうじて小平村に影響を及ぼしはじめていたのである。
なお、台湾において戦病死したのは、加藤浅蔵(小川三番)、中島辰五郎・川島権之助(堀鈴木)、前村寅吉(小川山家)の四人となっている。そのうち中島は一九一四(大正三)年六月に戦死しており、台湾での戦闘が大正期に入ってからも継続していたことがわかる。台湾住民による武装蜂起は、日本軍による山地先住民族の軍事的制圧が完了する一九一五年まで止むことはなかった。