日露戦争は、日本の勝利に終わったとはいえ、先の日清戦争とは比較にならないほど大規模な戦争で、膨大な兵力と物資を必要とする消耗戦・長期戦だった点に特徴がある。日本の動員兵力は約一〇八万人で、そのうち戦死者は約八万人にのぼった。戦費は約二〇億円を要し、兵力・戦費ともに日清戦争の一〇倍程度、戦死者数もまた数倍の規模におよぶものであった。
当然、小平村からの出征者数も増加し、『小平市三〇年史』によれば、その数は一二九人(回田新田を除く)とされている。表2-9は、小平村の日露戦争戦没者一覧である。表からは村全体で一一人が戦病死したことが確認できる。小平村では、出征兵士の約九%が戦死した計算になり、以上の結果は、全国的な動向(八%程度)ともほぼ重なっている。戦没地については、奉天三人、旅順二人というように、日露戦争のなかでもとりわけ激戦の繰り広げられた場所が目立っている。出征兵士・戦死者が増えたことで、兵士・留守家族に対する援護・慰問など村の果たすべき役割が大きくなるなど、地域と戦争のかかわりもこれまで以上に深まっていった。
表2-9 小平村の日露戦争戦没者 | |||
氏名 | 地区名 | 戦没年月日 | 戦没地 |
宮寺藤五郎 | 小川一番 | 1904年8月26日 | 遼陽 |
森田新平 | 小川一番 | 1904年11月30日 | 旅順203高地 |
神山力太郎 | 小川一番 | 1905年3月9日 | 奉天城外田義屯 |
鈴木丑五郎 | 小川新田上 | 1905年3月9日 | 奉天城外田義屯 |
川窪滝蔵 | 小川新田上 | 1905年3月8日 | 奉天 |
斎藤菊五郎 | 大沼田下 | 1904年12月30日 | 遼陽兵站病院 |
石井英芳 | 野中西 | 1904年11月30日 | 旅順203高地 |
野中清三郎 | 野中東 | 1905年2月26日 | 鉄嶺 |
鳥塚久平 | 鈴木上 | 1904年5月27日 | 南山 |
村野粂蔵 | 不詳 | 不詳 | 不詳 |
島田伊八 | 堀野中 | 1904年7月10日 | 不詳 |
(出典)小平町「戦没者遺家族実態調査表」(1952年)より作成。 (注)村野粂蔵は、「調査表」では確認できないが、戦争記念碑(鈴木町稲荷神社)に名前が刻まれている。 |