日露戦争の規模

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日清戦争後、ロシアは満州(現在の中国東北地区)を横断する東清鉄道の敷設権や遼東半島の租借権を清国から獲得し、東アジアでの勢力圏の拡大を着実にはかっていった。満州と朝鮮半島の利権をめぐるロシアと日本の対立は激化していく。一九〇二(明治三五)年には、ロシアを共通の仮想敵国とするイギリスと日本の間で日英同盟が締結され、その後日本国内ではロシアに対する主戦論が急速に高まっていった。一九〇四年二月、開戦を決意した日本は、ロシアに対して宣戦を布告し、日露戦争がはじまった。
 日露戦争は、日本の勝利に終わったとはいえ、先の日清戦争とは比較にならないほど大規模な戦争で、膨大な兵力と物資を必要とする消耗戦・長期戦だった点に特徴がある。日本の動員兵力は約一〇八万人で、そのうち戦死者は約八万人にのぼった。戦費は約二〇億円を要し、兵力・戦費ともに日清戦争の一〇倍程度、戦死者数もまた数倍の規模におよぶものであった。
 当然、小平村からの出征者数も増加し、『小平市三〇年史』によれば、その数は一二九人(回田新田を除く)とされている。表2-9は、小平村の日露戦争戦没者一覧である。表からは村全体で一一人が戦病死したことが確認できる。小平村では、出征兵士の約九%が戦死した計算になり、以上の結果は、全国的な動向(八%程度)ともほぼ重なっている。戦没地については、奉天三人、旅順二人というように、日露戦争のなかでもとりわけ激戦の繰り広げられた場所が目立っている。出征兵士・戦死者が増えたことで、兵士・留守家族に対する援護・慰問など村の果たすべき役割が大きくなるなど、地域と戦争のかかわりもこれまで以上に深まっていった。
 
表2-9 小平村の日露戦争戦没者
氏名地区名戦没年月日戦没地
宮寺藤五郎小川一番1904年8月26日遼陽
森田新平小川一番1904年11月30日旅順203高地
神山力太郎小川一番1905年3月9日奉天城外田義屯
鈴木丑五郎小川新田上1905年3月9日奉天城外田義屯
川窪滝蔵小川新田上1905年3月8日奉天
斎藤菊五郎大沼田下1904年12月30日遼陽兵站病院
石井英芳野中西1904年11月30日旅順203高地
野中清三郎野中東1905年2月26日鉄嶺
鳥塚久平鈴木上1904年5月27日南山
村野粂蔵不詳不詳不詳
島田伊八堀野中1904年7月10日不詳
(出典)小平町「戦没者遺家族実態調査表」(1952年)より作成。
(注)村野粂蔵は、「調査表」では確認できないが、戦争記念碑(鈴木町稲荷神社)に名前が刻まれている。